あの信長も感動した!?名もなき武士の誇り「鳥居強右衛門」とは?


これは泣かずにはいられない!かつて日本には、自分を犠牲にして仲間を助けようとした武士(もののふ)がいました。天正3年(1575年)、長篠設楽原(ながしのしたらがはら)で織田・徳川軍が勝利した戦いの3日前、奥平家の下級武士・鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)が仲間の見守る中、長篠城の前で逆さ磔にされてしまいます。それにしても名もなき人物の強右衛門が、なぜ処刑されたのでしょう?そこには泣かずにはいられない「武士の生き様」があったのです。
これぞ武士道、武士の魂。その生きざまをしっかり見て下さいね。

武田軍、1万5千の大軍で長篠城を包囲

時は戦国時代、甲斐の武田信玄が亡くなったあと、息子勝頼は父の遺志を継いで徳川家康と敵対します。そして天正3年(1575年)4月5日、武田軍1万5千は奥三河にある徳川方の長篠城を取り囲みました。
長篠城は小さいといっても大野川と寒狭川(かんさがわ)の合流点にあって、南は断崖絶壁で敵を寄せ付けず、唯一の攻め口になる北には深い空堀を築いて遮断していました。
それでも敵は大軍です。城主奥平貞昌はわずか500の兵を指揮して必死に防戦します。そして今回の主人公である鳥居強右衛門も名もなき武士として籠城していました。

奥平勢は敵の攻撃を幾度も撃退しますが、武田軍が火矢を放ったことで城内に火災が発生。それが兵糧蔵へ飛び火して大切な兵糧の大半が焼けてしまいました。こうなると城は長く持ちこたえられません。
ちょうどその頃、徳川家康は南へ65キロ離れた岡崎城で援軍を集結させていました。この落城間際の状況を家康に伝え、援軍の出陣を急いでもらえば城は助かるかも知れない。貞昌は一縷の望みを掛けて岡崎城へ伝令を送ることを決めました。

しかし城は厳重に包囲されており、ここを脱して岡崎城へ向かうのは至難の業です。おそらく敵に見つかり捕らえられるのは間違いないでしょう。貞昌から下知(げち)されたものの、誰もが尻込みして名乗り出る者はありません。
すると「それがしが向かい申す!」と声を上げる者がありました。皆がハッと振り返ると、そこには強右衛門の姿が。「おぬしは誰じゃ?」貞昌は強右衛門のことなど覚えていません。それもそのはず、名のある武将ではなく下級武士の一人に過ぎなかったからです。
強右衛門は胸に希望を抱いていました。この難しい任務が成功すれば、自分のような者でも奥平家で出世が望めるかも知れないと。そう強右衛門もまた立身出世を夢見る乱世の漢(おとこ)だったのです。

それにしても武田軍はなぜ深い山を越えて奥三河へ出陣したのでしょう?また決戦を挑むなら1万5千では少々少ない気がしますね。実は徳川家康を誘き出したかったという説があります。
この前年に勝頼は高天神城という城を落としてますけど、この時は家康も信長も助けに来ませんでした。援軍を出せる余裕がなかったからですね。ところが援軍を出さないと家臣の士気は一気に下がります。周囲への聞こえも悪いですし…

そこで勝頼は考えました。岡崎に近い長篠城を攻撃すれば、今度こそ家康は助けに来るだろうと思ったわけですね。当時の家康の動員力は8千がギリギリですから、1万5千もあれば十分勝てると予想したのでしょう。ここで徳川を一気に潰すつもりでした。
また長篠城にいる奥平貞昌はもともと武田氏の家臣で、裏切って徳川に鞍替えしたばかりでした。「裏切り者は許さん!」というわけで、長篠城を目標にしたのだとか。

それにしても強右衛門は度胸がありますね。誰もが尻込みする中、自ら声を上げるなんてできることではありません。自分のため。そして仲間を助けるためイチかバチかの勝負に出たのでしょう。その判断が吉と出るか凶と出るか、続きをお楽しみください。

川を泳いで野を駆ける!いざ岡崎城へ

強右衛門には厳重な包囲を突破できる秘策がありました。それは南の断崖を降りて川を渡ることでした。ここなら敵の警戒も緩んでいるはず。また強右衛門は水練が得意で、幼い頃から川へ潜っては魚を獲ったりしていました。
やがて強右衛門は激流をものともせず川底へ潜り、何十メートルも泳いで敵の包囲を突破します。そして近くの雁峰山(がんぼうさん)へ登って狼煙を上げ、脱出の成功を仲間に知らせました。
強右衛門はすぐさま走り出し、敵に見つからないよう山の中を走り抜けて岡崎城を目指します。疲労困憊の中、翌日には岡崎に到着して長篠城の危急を知らせました。

家康は長篠城の危機を心配し、織田信長も3万の援軍を引き連れて到着していました。信長は強右衛門にいったん休んだうえで軍勢とともに長篠へ向かうよう勧めますが、「一刻も早く、この吉報を城の者たちに伝えたいと存じます」とだけ言い残し、再び長篠城へ向かって走り出しました。強右衛門の強い気持ちに感銘を受けた信長は、この下級武士の名を記憶に留めたそうです。

強烈に感じるのは強右衛門が持つ心の強さでしょうか。いったい何が彼の背中を押したのか?責任感や使命感はもちろんあったはずですけど、「自分が仲間を助けるんだ!」という自負心が強かったのかも知れません。そんな自己犠牲の精神が美談として語られたのでしょうね。

ちなみに強右衛門の身分は下級武士ですが、地元の地侍(じざむらい)だったのでは?という説があります。普段はごく狭い領地を持っていて、戦いになれば主君に従って出陣するという存在だったようです。

とはいえ強右衛門が駆けたのは往復で130キロの道のりでした。山間ですからアップダウンも激しく、きれいな道などどこにもありません。また当時の履物は草鞋(わらじ)ですから、おそらく足の裏は無残に擦り剝けていたはずです。それでも泣き言ひとつ口にせず任務を実行した強右衛門の精神力は、驚嘆せざるを得ませんね。

死を覚悟して真実を叫ぶ!鳥居強右衛門こそ忠義の士

長篠城へ激走を続けた強右衛門は、ようやく城の手前までやって来ました。敵に発見されることなく、無事に城へ戻ることができれば任務は完了です。思わず貞昌や城兵たちの喜ぶ顔が目に浮かびました。
雁峰山へ登った強右衛門は、出発した時と同じように狼煙を上げました。今度は「城へ戻って来たぞ!」という意味です。これを見た城内からは歓声が上がり、城兵の士気も最高潮に達しました。

しかし警戒を強めていた武田軍もこれには気付いたようです。強右衛門も任務成功を目前にして少し気が緩んだのでしょう。「曲者!動くな!」強右衛門は武田兵に見つかって捕縛されてしまいました。
こうして本陣へと引き立てられ、そこで勝頼は強右衛門に強要しました。「援軍は来ないから城を開けと言え!そうすれば命は助けてやろう」と。敵の援軍がやってくる前に、何としても長篠城を落としたい勝頼は、強右衛門を家臣に取り立てるという約束までしました。

強右衛門はすぐさま提案に応じ、城からよく見える対岸へ連れて行かれます。とはいえ彼に下心が無かったと言ったら嘘になります。武田の家臣になれば大出世ですし、この危機的な状況なら誰でも甘い誘惑に乗ってしまうことでしょう。
しかし強右衛門は強い漢でした。武田の兵が「さあ、城に向かって伝えよ!」と言うと、強右衛門は声の限りに叫びます。「城の衆よ、あと2日、あと2日のうちに織田様と徳川様の援軍がやってくる。それまでの辛抱じゃ!」

城からは大きな歓声が起こり、その士気は天を衝くばかり。勝頼が仕組んだ謀略は逆効果となったのです。激怒した勝頼は強右衛門を逆さ磔にするよう命じました。
逆さ磔にかけられる直前、落合直次(なおつぐ)という武田の武将が強右衛門に語り掛けてきます。「勇気ある振る舞いと忠義に感服した。鳥居殿の姿を絵に描き留めて良いだろうか?」強右衛門はにこやかに快諾し、やがてその絵は旗指物(はたさしもの)となって伝えられることになりました。

強右衛門の忠義ぶりに感動した他の家臣たちも処刑を思いとどまるよう願いますが、勝頼が聞き入れることはありませんでした。やがて強右衛門は体を逆さに縛り付けられたまま槍で貫かれます。城からは悲鳴や絶叫、歓喜の声、そして勝鬨の声が鳴りやむことなく続きました。強右衛門は最後まで呻き声ひとつあげず、朦朧とした意識の中、それを聞きながら静かに果てていきました。

強右衛門の勇気ある行動のおかげで救われた長篠城ですけど、この城が落ちなかったことで、3日後の長篠の戦いでは重要なキャスティングボードを握っています。
勝頼は長篠城を監視するための兵を置かねばならなくなり、たった1万2千の軍勢で設楽原へと出陣しました。
また長篠城が健在だったからこそ、武田軍の退路を遮断することができたのです。
もし長篠城が落ちていれば、勝頼がそのまま本国へ撤退する可能性もありました。そうなると長篠の戦い自体が起きなかったかも知れませんね。そう、歴史はたった一人の下級武士によって変わったわけです。

無名の武士が時代を動かした。
「長篠の戦い」もう一人のヒーロー

5月21日、ついに織田・徳川軍と武田軍の激戦が始まりました。有名な「長篠の戦い」です。この合戦で織田・徳川連合軍3万8千は、長年の宿敵だった武田軍を完膚なきまでに打ち負かしました。勝頼は退路を断たれて惨めに撤退していったそうです。

「殺されると分かっていながら、武士としての筋と忠義を通した」強右衛門の熱い心は、信長や家康をはじめ、多くの武士たちに感動を与えました。のちに徳川家に仕える落合直次は、磔にされた強右衛門の姿を絵に描いて旗指物にし、子々孫々まで伝えたといいます。現在も「落合左平次(さへいじ)道次背旗(せばた)」として東京大学史料編纂所に所蔵されていますね。

長篠の戦いが終わったのち、信長は長篠城を守った奥平貞昌の功績を称えて自らの一字を与え、「信昌」と名乗らせます。また家康は自らの長女・亀姫と信昌を結婚させ、加納藩10万石の城主に任命しました。また徳川の一門である「松平姓」を与えたそうです。

いっぽう強右衛門の死後、嫡男の信商(のぶあき)は奥平松平家に乞われて仕え、代々、「強右衛門」を名乗りました。13代目の商次(あきつぐ)が家老になるなど、幕末に至るまで厚遇されたそうです。

強右衛門の立派すぎる行動は、あまりに自己犠牲が強すぎて「何を馬鹿なことを…」と言われるかも知れません。しかし自分の身を犠牲にしてまで救ったものは、あまりにも大きいのです。
「目の前の利を取るか?」それとも「将来の名誉を取るか?」は究極の選択と言えますが、武士として「家」と「名」を残すことは大きな意味を持ったのでしょう。
また現代社会でも「イヤなことを率先して引き受ける人」こそが信頼される条件ではないでしょうか。

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