乱世に翻弄された悲劇の女性たち。なぜ叔母である“おつやの方”は、織田信長に磔にされたのか?


戦国乱世を生き抜いたのは、なにも男ばかりではありません。ここに織田信長の叔母にあたる、おつやの方と言う女性が居ます。一族の総帥である信長の命令で、岩村城主・遠山景任(とおやまかげとう)に嫁ぎ、夫の死後は女城主として城と領民・家臣を守りました。しかし最後には信長の逆鱗に触れ、磔刑の中でも最も苦しいと言われる逆さはりつけにされてしまいます。なにがおつやの方をそのような運命に導いたのでしょう。そこには戦国の世を生きた、女の悲しい定めがありました。

美貌を謳われた信長の叔母おつやの方、
信長の命令で3回の政略結婚

おつやの方は信長の叔母ですが、天文3年(1534年)生まれの信長より10歳ほど年下です。この方は信長の命令で美濃の国岩村城主・土豪の遠山景任に嫁いだのですが、それ以前にも、二度結婚していました。もちろんどれも政略結婚でした。戦国一の美貌を謳われたお市の方を始め、織田家の血筋は美男美女ぞろいで知られます。おつやの方もその例に漏れず美しい女性でした。戦略のためには自分の身うちも普通に利用する当時の事、おつやの方は信長の良い手駒でした。

美濃東部の岩村城のあたりは、武田・織田・徳川の勢力が争っている微妙な土地です。それまでは武田寄りだった遠山景任ですが、信長の一族であるおつやの方を迎えて、軸足を織田に移します。尾張の織田信長と甲斐の武田信玄、いずれは決着をつけねばならぬ二人でした。信長は当然それを見据えて考えをめぐらします。

さておつやの方が景任に嫁いだのは良いものの、元亀3年(1572年)8月、夫・景任は、世継ぎを設けぬまま病を得て亡くなってしまいます。この病も、城を攻撃した武田の軍勢を撃退する時に負った傷が元になりました。夫が亡くなり世継ぎの子共もいなかったのですから、おつやの方は実家へ帰っても良かったのですが、信長がそれを許しません。せっかく手を付けた岩村城、今おつやの方に戻って来られては、話が振り出しに戻ってしまいます。

すかさず自身の五男・御坊丸(後の織田勝長)を、養嗣子として岩村城に送り込みました。「後継ぎが無くてはつやも心細かろう。仕方が無い儂の子をくれてやろう」信長、恩着せがましくこんなことを言っていますが、岩村城を乗っ取る気満々です。信長は着々と手を打って来ます。

おつやの方が嫁いだ岩村城とは、どのような城だったのでしょう。この城は岐阜県恵那市岩村町にある、標高721mの中世日本の山城です。この辺りは霧が多く発生する土地のため、別名・霧ヶ城などと言う、素敵な名前を持っています。中津川の苗木城、可児市の兼山城と並んで、岐阜の三山城に数えられ、さらにはその標高の高さから、奈良県高市郡の高取城、岡山県高梁市の備中松山城とともに、「日本三大山城」と呼ばれています。

おんな城主おつやの方が誕生するも、城は武田勢に囲まれる

やって来た御坊丸ですが、当時まだ6歳ぐらいでした。信長の命令もあり、おつやの方が幼い御坊丸に代わりおんな城主となります。

景任が亡くなった年の10月、突然甲斐の武田信玄が、上洛を目指して西上作戦(せいじょうさくせん)を開始します。信玄自身は2万2000の軍勢を率い、ほかにも山県昌景や秋山虎繁(とらしげ)に3000の兵を任せて出陣させます。こうなれば織田と武田の衝突は避けられません。

同月、早くも岩村城は武田勢に包囲されます。率いるのは武田の武将・秋山虎繁、おつやの方は家臣を励まし城に籠りますが、ひと月経っても頼みの織田の援軍はやって来ません。当時信長は信玄を筆頭とする“信長包囲網”に囲まれ、岩村城どころでは無かったのです。

11月も半ばになるころ、虎繁はおつやの方に降伏を勧める使者を送ります。使者が読み上げる降伏の条件は、驚くべきものでした。「ひとつ、城内の者の命は助ける」「ひとつ、人質に取る者以外はどこへなりと去るのを許す」「ひとつ、去る者には当座の路銀と食べ物を与える」「ひとつ、御坊丸殿は我が養子として、いずれはこの城を継ぐものとする」

滅多にない好条件です。「織田の援軍も望めそうにもない。これだけの良い条件で、城内の者の命が助かるのならこの申し出を受けよう」おつやの方がそう心を決めかけた時でした。使者は最後にとんでもないことを言いだします。

「最後につやの方には、我があるじ秋山虎繁の室となられるように」おつやの方は黙り込んでしまいました。武田の武将との結婚、それはおつやの方が武田の人間になることであり、織田家への裏切りを意味します。「私が武田の人間になれば、あの信長殿が黙ってはいるまい。しかし私が虎繁殿と祝言を上げれば、御坊丸の命は助かる」当時開城の条件は城主が切腹し、その首を差し出すのが習わしでした。おつやの方が事実上の城主であっても、男子であり信長の子である御坊丸の命を差し出すことになります。自分が虎繁の妻になれば、御坊丸は生き延びることができます。

「室になれ」つまり自分の妻に迎えたいと言っているんですね。時に虎繁46歳おつやの方40歳、釣り合わぬ年ではありません。それに虎繁もなかなかの男振りだったと言います。美貌を謳われたおつやの方とは、似合いの夫婦だったのでしょう。さて、おつやの方は何と答えるのでしょうか。

虎繁に嫁いだおつやの方

「承知いたしました、秋山様に嫁ぎましょう」おつやの方は答えました。武家の家に生まれた以上、戦略の手駒になるのが定め。「私一人がうなずいて、城兵や御坊丸の命が救われるのならそれで良い。織田の家に生まれた身であれば、自分の思うようになど生きられるはずも無い」おつやの方はそう考えました。一方虎繁にすれば、城主であるおつやの方を娶れば、遠山の家臣たちも自分に従うだろう、それに織田の血筋を引き、美貌で知られるおつやの方を手に入れたいとも思いました。

やがて岩村城内で、虎繁とおつやの方の婚礼の式が挙げられました。天下取りに名を上げた織田信長の一族に生まれながら、今では止むを得ない婚姻により、武田方の人間となってしまったおつやの方。夫虎繁に大切に扱われても、その心中はどのようなものであった事でしょう。しかもあの信長がこのまま引き下がるはずはありません。いつか必ずこの城を滅ぼしに来るでしょう。

こうして岩村城は武田の手に落ち、つやは虎繁と祝言を上げました。御坊丸は約束に反して、養子と言う名の人質として信玄の元に送られてしまいます。しかしこの開城の条件は寛大なものでした。城主は打ち首となり、城に籠る者は皆殺しにされたり、人買いに売られてしまったりすることが多かったのです。

怒った信長に城を攻め落とされたおつやの方、
その先に待っている運命は

おつやの方の再婚話を聞いて、自分が援軍を送らなかったことは棚に上げ、信長は激怒します。よりによって武田に寝返るとは。信長は裏切り者は許しません。それが血族であればなおさらです。

ここで世の中の情勢が大きく変わることが起こります。元亀4年(1573年)4月12日、信玄は上洛を果たせず遠征途上で亡くなりました。後を継いだ勝頼は長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、武田家は衰退して行きます。余裕ができた信長は、岩村城に目を向けます。天正3年(1575年)11月には、信長の嫡男・信忠を総大将に、織田の大軍が岩村城を取り囲みました。城主虎繁の元、岩村城は5ヶ月持ちこたえましたが、食糧も尽き果てました。長篠の戦いで多くの将兵を失った勝頼は、援軍が間に合わず、岩村城は追い詰められます。

「叔母の城に火をかけるのは忍びない。虎繁公やつやを始め、城内の者すべての命を助けよう。城を開かれよ」この信長の申し出を信じて、虎繁は城を開きました。しかし信忠の陣へやって来た虎繁・おつやの方を始め主だった武将たちは、たちまち織田の兵士に縛り上げられてしまいます。「信忠殿、話が違うではないか」詰め寄る虎繁に、「済まぬな、父信長よりの命令じゃ」と信忠は答えます。信長は最初から許す気など毛頭ありませんでした。

岩村城に籠っていた人々は、城内に乱入した織田軍により皆殺しにされました。信長に騙され降伏した、おつやの方と虎繁を始めとする武田の武将たち。彼らにはどんな運命が待っているのでしょう。

怒った信長に城を攻め落とされたおつやの方、
その先に待っている運命は

おつやの方や虎繁とその近臣は、信長の居城岐阜城へ送られました。虎繁を始め男たちには、逆さ磔の刑が申し渡されます。信長は最後の情けとばかりに、おつやの方に言います。「つや殿は女性(にょしょう)の身、出家して夫秋山殿の菩提を弔われるが良かろう」おつやの方はうなずきませんでした。「敵の虎繁殿でさえ約束は守ってくださった。それなのに身内の信長殿のこの仕打ち。これ以上生きていても、良い事はないであろう」おつやの方はすでに覚悟を決めていました。「私も夫と共に参ります」

「ふんっ、せっかく助けてやろうと言うのに。よかろう望み通り逆さ磔にせよっ!」

助命の申し出を断られ腹を立てた信長は、つやにも逆さ磔の刑を命じます。逆さ磔の刑はあまりに残酷なので、普通は女性に適用されることはありません。信長はよほど敵将に嫁いだおつやの方が憎かったのでしょう。

さかさまに縛り付けられたおつやの方は、全身の血が頭に下がり、その顔がみるみる紅潮し目玉が飛び出して来ます。「おのれ信長、良い死にざまはせぬであろう」おつやの方は最後の瞬間こう叫んで息絶えたと言います。生きている間は、織田家のために何度も政略結婚の道具となり、最後は甥である信長の命令で逆さ磔にされ死んで行く。乱世に翻弄されたおつやの方の悲しい生涯でした。

おつやの方の無念の死から7年後、天正10年(1582年)6月2日に、戦国史に残る大事件“本能寺の変”が起こります。ご存知のように天下統一を目前にした織田信長が、家臣明智光秀の謀反により、京都本能寺で最期を遂げた出来事です。まさに「良い死にざまはせぬであろう」との、おつやの方の最後の言葉通りの死を迎えました。

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