家康号泣。 死の命令を受け入れた、鳥居元忠


天下統一を果たした徳川家康には、忠誠を誓う家臣、つまり忠臣が何人もいました。
その中で今回取り上げるのは、鳥居元忠です。
あまり聞きなじみのない戦国武将と思われますが、この機会に彼がどういう人物でどんな最期を遂げたのか知っておきましょう。
では、鳥居元忠の生き様について可能な限り史実に基づきながら、解説していきます。

絶対泣ける。これぞ武士道、武士の魂。
なぜ鳥居元忠は、「三河武士の鑑」と呼ばれているのか?

泣かずにはいられない。日本にはかつて、こんなにすごい武士(もののふ)がいました。
勇猛果敢、忠義一徹で知られる三河武士ですが、その中でも、「三河武士の鑑(かがみ)」と称えられている名将がいます。徳川十六将のひとり、鳥居元忠です。
なぜ彼は、多くの武士たちから「三河武士の鑑」と呼ばれたのでしょう?
ここには、泣かずにはいられない、「武士の生き様」があります。
これぞ武士道、武士の魂です。

「武士の鑑」とは戦国武将を後世で評価するにあたっての1つの指標です。

「武士の鑑」とは戦国武将を後世で評価するにあたって大きな勲章に相当します。

鳥居元忠についてはあとで詳しく解説しますが、家康の人質時代からそばに仕えて、今川家家臣からひどい扱いを受けても、年上である元忠が「受け皿」となったので理不尽なことに耐えられたとされます。

たとえ理不尽な扱いを受けても主を守るためなら可能な限り盾となる、これが鳥居元忠なりの忠義であり、後世で三河武士の鑑と呼ばれる所以となったわけです。

家康号泣。死の命令を受け入れた、鳥居元忠。

慶長5年(1600年)、6月16日。「関ヶ原の戦い」が始まる3ヶ月前。徳川家康は、会津の上杉と戦うために「会津征伐」を決意しました。また出発の前日に、伏見城にいる鳥居元忠を訪ねます。
50年来の仲である2人は、酒を酌み交わしながら昔話に花を咲かせますが、突然、目にいっぱい涙をためた家康は、こう切り出します。
「元忠、わしのために死んでくれないか。伏見城の留守居役をたのみたいのじゃ」「そなたとは、主従を越えた兄弟のような関係じゃ。だからこそ、そなたに頼みたい」元忠は、それに対して「殿、それ以上申されるな。よくぞ、私に命じて下さった。たしかに、こんな命令は、他の者には言えますまい」。
そう言って笑ったといいます。

主君が家来に死んでくれと命令、いや懇願したのでしょうか。普通なら「命あっての物種」ですから、断るにせよ、主君を怒らせない形でやんわりと断るのが一般的です。
特に戦国時代はこの考え方が重視されていました。もし怒らせてしまったら、主君から成敗されても戦国時代では罪には問われません。
しかし、元忠は家康の懇願した想いを受け入れたのです。家康が何を考え、大きなことを成し遂げるために必要なのか、自分の役割を悟ったのだと推測されます。「他の者には言えますまい」とあるように、元忠にしか頼める相手がいなかったとすれば、次に紹介する内容とつながってきます。

家康と元忠は、人質時代から苦楽を共にした、50年来の付き合い。

徳川家康より4歳上の鳥居元忠は、天文8年(1539年)生まれで、この時61歳。家康は、8歳~19歳までの間、今川氏の人質になっていましたが、元忠も小姓として家康に付き従い、苦しかった人質時代を共に過ごしました。
以来、家康の側近中の側近として、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、すべての戦いに家康と共に出陣し、家康と元忠は、主従の関係を越え、むしろ兄弟に近い関係だと言われていました。

豊臣秀吉亡き後、天下を狙った家康は、宿敵・石田三成との戦いを決意します。その呼び水となったのが「伏見城の戦い」です。自分が主力を率いて会津征伐に向かえば、その留守を狙って三成が挙兵するであろう。むしろ、戦端を開く好機となる。家康は、そう予想していました。その場合、上方における徳川家の本拠である伏見城は、西軍の最初の攻撃目標になります。わずかな留守居役を残した城が落城するのは必至です。城兵の命が失われることになりますが、それも戦いの大義名分を得るために必要な犠牲でした。

問題は、誰をその犠牲にするか?非常な乱世を生きてきた家康であっても、死が確実という命令を下すには躊躇しました。家康は、さんざん悩んだあげく、最も信頼し、最も仲が良かった元忠を選びました。そして、元忠も「死の命令」を、喜んで引き受けました。

家康にもいろいろと苦悩があったんですね。家康が幼少のころ、今川家に人質として駿河に住まわされ窮屈な思いをしていました。そんな時に同行していたのが、当時は小姓(身の回りの世話をする人)として家康のそばにいた4歳年上の元忠だったのです。苦しい時を共にして人質生活から解放され、恩義に報いた元忠を家康は側近として重宝しました。もちろん、幾度の戦いを経験して家康のために尽力しました。信頼できる部下というよりは、血はつながっていないものの、何かを超越した存在として家康は元忠と接していたことでしょう。本来なら実質的な死の命令を家康は元忠以外の誰かに与えたかったはずです。
例えば徳川四天王の井伊直政、酒井忠次(さかいただつぐ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)、「本多忠勝」という4名の武将がいます。この中で家康に古くから使えているのが酒井忠次でした。徳川家康の父である松平広忠の時代から使えていた「古株」です。ただ、1596年に死去してしまいました。本多忠勝に白羽の矢が立ってもおかしくはありませんでしたが、負け戦と分かっているのに失いたくはなかったのでしょう。なにせ、元忠は諏訪原城合戦で足に銃撃され、体に障害が残ってしまったわけです。つまり家康は、自分を決して裏切らず、死んでも徳川家の体制に差し支えない人物が元忠だったと考えると人選としては合理的な判断をしたと考えます。下手に忠誠心の低い者に伏見城を守らせると、圧倒的な武力で降伏あるいは裏切りに遭ってしまうので、どうしても元忠しかいなかったです。

4万対1800。三河武士の意地をみせた「伏見の戦い」。

家康の予想通り、「会津征伐」のために家康が上方を去ると、まもなく石田三成が挙兵。4万の西軍が伏見城を包囲しました。もともと伏見城は、豊臣秀吉が隠居城として築いた城で、戦いの想定はしていませんでした。しかも、城を守る城兵は、わずか1800あまり。当初三成は、1日もあれば攻め落とせると楽観していました。

しかし、城を包囲する大軍を目にした元忠はむしろ奮い立ちました。「三河武士の意地、みせてくれようぞ」。老いたとはいえ、数々の合戦で武勇を誇った猛将の闘魂は兵たちにも浸透し、わずかな兵力ながら城方は必至に防戦しました。

1日で落城させられるはずが、城は18日も持ちこたえます。焦った三成は、徳川家に従って伏見城内に籠城する甲賀(こうか)衆の妻子を捕縛して、内通しなければ処刑する、と脅しました。その脅迫に屈した甲賀衆の一部が城内に放火し、城門を開けて西軍を呼び込みました。

敵勢が城内に入ってきては、もはや太刀打ちできない。元忠は「もはや、これまでじゃ」と観念し腹を切る覚悟を決めました。敵勢の中に顔見知りの雑賀衆(さいがしゅう)の頭領・鈴木重朝(しげとも)を見つけた元忠は、「いいところで会ったな。首を獲って手柄にせよ」。そう言って、首を討たれたといいます。

この「伏見の戦い」が引き金となり「関ヶ原の戦い」が開戦。その戦いに勝利した家康は、天下人としての道を歩き始めます。

やはり元忠は死んでしまいました。敵方が4万で味方がたったの1800、いくら籠城するとはいえ普通に考えると愚策です。そもそも籠城戦は、城の規模や強度の状態によりますが、籠城して応戦する側が攻めてきた敵に対しての兵力差がよくて10倍、悪くても5倍までなら守り通すことができます。(正攻法でのみ)
しかし伏見城は、太閤秀吉が別荘感覚で建てた城なので、大坂城のような防御力はありません。仮に10倍だったとしても、城の防御力を加味した兵力は18000と40000には及ないのです。加えて言うなら、籠城戦は味方の援軍ありきで行われる戦い方。つまり、勝つ見込みがなく、立地条件からして徳川の援軍が来ることは皆無だったわけです。それでも事実上の死の命令を受けたのは、元忠が家康が果たすべき責務のために、命がけで時間を稼ぐことが最期の使命と解釈したからでしょうか。
結果的に家康は、三成に背後を取られることなく、関ヶ原の戦いで勝利できたと考えれば元忠の命がけの行動は無駄ではなかったと考えます。主のために鳥居元忠の行為は、徳川の世となってからは、誰にもまねができない行動だと高い評価を受け、「三河武士の鑑」として語り継がれることになるのです。

 

鳥居元忠の生き様について解説してきました。エピソードで印象に残るのは、主のために死ねると言ったところでしょうか。元忠の働きにより、嫡男の忠政は山形藩24万石の大名へ昇格したわけです。
また、家康は元忠が散った伏見城の血染めの床板や畳を、江戸城内部へ運び保管して、家臣たちへ忠義のお手本とばかりに見せつけました。
明治以降は、元忠の血染めの畳は栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋められ供養され、血染めの床板は「血天井」として京都の養源院を筆頭に各寺院などに移され、現在でも展示されています。
ちなみに、元忠の四男である鳥居忠勝は水戸藩士となり、その娘は赤穂藩の家老・大石良欽(おおいし・よしたか)に嫁ぎ、この夫婦の孫に当たるのが赤穂浪士で有名になった大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)なのです。赤穂浪士の討ち入りがのちに「忠臣蔵」と呼ばれるようになった(諸説アリ)のは元忠の家康に対する忠義が関係していても不思議ではありません。
つまり、鳥居元忠を紹介したことで言いたいのは、主と血がつながっていなくても兄弟以上の絆があれば、死を伴う無謀なお願いを聞く忠義を示してくれるいうことです。今では考えられませんが、この忠誠心を「三河武士の鑑」と位置付けたのでしょう。

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