夫と5人の子どもを戦いで失った母親の悲しみとは? ~妙向尼~


戦国乱世に翻弄された女性!そして死神に取りつかれた森ファミリーの運命! 乱世に翻弄された悲劇の女性たち。今回は森蘭丸・忠政たちの母だった妙向尼についてご紹介します。 13歳で織田信長の部将森可成に嫁いだ妙向尼は、元の名を「えい」といったそうです。妙向尼というのは出家してからの名前となりますね。 妙向尼は優しい夫、そして6人の男子と3人の女子に恵ま、とても幸せな暮らしを送っていました。ところが、誰もがうらやむ森ファミリーに突然不幸が相次ぐのです。まるで死神に憑りつかれたかのように… いったい森ファミリーに何が起こったのでしょう?妙向尼や家族を襲った悲劇、そして森家の運命についてご紹介していきたいと思います。

輝かしい将来を期待されていた兄弟たち

森家に嫁いだ妙向尼が暮らしていたのは、美濃国の金山城でした。森家は早くから信長に従って活躍しており、特に信頼の厚い家臣だったようです。また6人の男子と3人の女子に恵まれ、将来は安泰だと誰もが考えていました。そんな森家の子供たちを紹介していきましょう。

まず夫の可成は古くから信長に仕えた家臣で、槍を使えば天下無双。その凄まじい戦いぶりから「攻めの三左」と異名を取るほど。まさしく織田家きっての猛将として活躍していました。

嫡男の可隆は、父に代わって金山城を守ることが多かったものの、考えと行動は常に冷静沈着。大将としての器を兼ね備えた人物だったようです。

次男の長可は元服こそ果たしていなかったものの、武芸の才能は兄弟の中でも随一でした。のちに名槍「人間無骨」を引っさげ、「鬼武蔵」と異名を取る片鱗が見えていました。

三男は誰もが良く知る蘭丸こと成利です。戦国一の美男子として知られ、信長の小姓として艶めいたイメージはあるものの、使者や取次役として能力を発揮しました。

また4男坊丸こと長隆、5男力丸こと長氏も、兄成利と同じく小姓として信長の側に仕えています。まだ幼いものの、将来の幹部候補生として英才教育を受けていたはずです。

末っ子となる6男仙千代は、兄たちと違って頑固で聞かん気が強かったようです。そのため小姓になるのはまだ早い。として美濃へ戻されることになります。
この仙千代が成長して忠政と名乗りのですが、結果的に森家の家督を継ぎ、美作津山藩18万石の初代藩主となりました。

また3人の娘たちも立派な武将に嫁ぎ、幸せな結婚生活を送ることになります。妙向尼は大家族に囲まれ、幸せの絶頂にありました。もし信長が天下を統一すれば、功績のあった森家は重く用いられて、柴田勝家や羽柴秀吉を凌ぐ出世を遂げたかも知れません。
しかし、そんな森ファミリーの元に死神が不幸を連れてやって来るのです。

当時は乳幼児の死亡率が高かかったようで、諸説ありますが無事に成人できるのは1/3程度だったとされています。そんな中、森ファミリーは全員が元服または成人しているのが驚きですね。また妙向尼の息子たちは勇猛果敢で武将としての器量を備えていました。たしかに信長が天下統一を果たせば、それぞれ活躍したことは間違いないでしょう。

 

さらに父可成が仕官先として織田家を選んだのも見事です。元々は美濃守護土岐家に仕える家臣でしたが、斎藤道三が下剋上を果たすと斎藤家の家臣へ鞍替えし、さらに道三が戦死すると、いち早く尾張の織田家に付いています。変わり身が早いといえばそれまでですが、やはり可成は戦国武士だけあって、どうすれば生き残れるのか?そんな嗅覚に優れていたのかも知れませんね。

 

また可成は信長の器量を見抜いていたのでしょう。終生、主君と仰ぐのは織田家しかない。そう心に決めた瞬間から森家の立身出世は始まりました。しかし、そんな希望とは裏腹に、大きな悲劇に見舞われるのは運命の皮肉としか言いようがありません。

世の中に、武士ほど儚いものはない。相次ぐ不幸を嘆く妙向尼

最初の不幸は信長が上洛を果たし、越前の朝倉家と敵対した時のこと。元亀元年(1570)年になって織田軍は若狭から越前へ侵攻し、可成は信長の命令で敵が籠城する手筒山城を攻めたてます。その際、嫡男可隆も同行していました。
この戦いで初陣を迎えた可隆は、勇猛ぶりを発揮して一番乗りを果たします。しかし深入りし過ぎたためか敵の反撃を受け、討ち死にを遂げてしまいました。手筒山城は陥落するものの、可隆は19歳という若さで散ってしまったのです。

しかし不幸はほんの序章に過ぎませんでした。その年のうちに朝倉・浅井軍が京都を目指して進軍してきます。信長は当時、現在の大阪市にあたる野田・福島で戦っていたため、やすやすと駆け付けられません。ここは可成を中心に守り切る他なかったのです。
激しい戦いののち、劣勢だった織田軍は壊滅。可成もまた壮絶な討ち死にを遂げました。同じ年に大黒柱と嫡男を失った森家に激震が走るものの、頼りになる息子たちはいます。次男長可が13歳で家督を継いだことで、森家はどうにか持ち直したのです。

どうにか森家も安泰かと思われましたが、悲劇は終わってなどいませんでした。天正10年(1582年)、本能寺の変が勃発。主君信長とともに3男蘭丸、4男坊丸、そして5男力丸が討死を遂げてしまいます。とりわけ蘭丸こと成利は13歳の時から信長に抜擢され、側近中の側近として森家を支える大きな存在になっていました。

やがて葬儀の席で、妙向尼は人目もはばからず悲しみ、長可の鎧袖をつかんだまま滂沱の涙を流します。
「この世に武士ほど儚(はかな)いものはありません。夫に先立たれた時は、あなた達兄弟がいることゆえ、それを慰めに生きてきました。」
「それなのに3人とも本能寺で討死したというではありませんか。悲しみのあまり自害して果てようと、百度となく千度となく考えました。」
「しかし、こうして長可殿も仙千代もよく無事で戻ってきました。これにまさる喜びはありません。」

長可は涙を押さえつつ
「母上、お嘆きなさいますな。武家に生まれた以上、生きて帰らぬ覚悟はしておくもの。どうかお嘆きなさらずに念仏を唱えてください。そうすることで亡き父や蘭丸たちも浮かばれましょう」
そう言って母を慰めたそうです。

ところが森家を襲った不幸はとどまることを知りません。母を慰めた長可にも死神の魔の手は迫っていたのです。

わずか10年ちょっとで森家は父と4人の息子を失ったわけですね。幸せな境遇から急転直下の運命に見舞われました。名のある武将に嫁いだ3人の娘たちも、幸せな結婚生活を送ったいっぽうで不幸に見舞われています。
いずれの夫も討ち死にしたり、改易となって所領を没収されたり…本当に死神が憑りついているのでは?と思えるほど。

 

ところで妙向尼と3男蘭丸について、こんな逸話があります。当時の織田家は石山本願寺と10年近くも血みどろの戦争をしていました。実は妙向尼は一向宗すなわち本願寺の信者だったため、そんな悲惨な状況に心を痛めていたとか。そこで小姓として仕えていた蘭丸に「信長に会わせて欲しい」と相談するのです。すると妙向尼は必死の形相で、本願寺との講和を嘆願しました。
「上様は本願寺を滅ぼすおつもりなのでしょうか?それならば我が子らを自害させ、この尼が浄土への道連れと致します。」
これには信長も驚き、「まあ待て。わしとて本願寺を滅ぼすつもりなど毛頭ない。言うことを聞かぬため懲らしめてやったまでじゃ。もし本願寺が今の場所を立ち退くというのなら、和睦を考えても良い」

やがて蘭丸たちの奔走によって本願寺との和睦が成り、長きにわたった石山戦争は終わりを告げたのです。いっぽう本能寺の変が起こった時、仙千代と妙向尼は安土城にいましたが、無事に救い出されて美濃へ戻っています。

ついに長可も長久手の戦いで討死!

本能寺の変で3人の兄弟たちが討ち死にしたあと、残された長可は24歳、そして仙千代は12歳でした。程なくして親戚にあたる子供が、仙千代の身代わりとなって僧となっています。
こうして森家の命運は、長可が一人で背負うことになりました。信長という後ろ盾がなくなったものの、「鬼武蔵」という異名そのままに美濃一帯を切り従えていくのです。また義父である池田恒興の勧めもあって、いち早く羽柴秀吉に接近していました。次に天下人となるのは秀吉を置いて他にはいない。と見定めたからでしょう。

しかし天下を目指す秀吉の前に強敵が現れました。天正12年(1584年)、信長の次男信雄と語らって徳川家康が軍事行動を起こしたのです。そして長可は俄然張り切っていました。大きな手柄を立てれば大出世ですから、森家にとってこの上もないチャンスだったわけです。

ところが意気込みとは裏腹に、思わぬ徳川軍の攻撃を受けて長久手において惨敗。長可もあえなく討ち取られてしまいました。
戦国乱世とはいえ、たった13年の間に、夫と5人の息子を失った母・妙向尼の悲しみはいかばかりだったでしょうか。この時、森家に残された男子は6男の仙千代のみ。仙千代を思う長可は「自分が死んでも領地を継がせるべきではない」と言ったそうですが、秀吉は功績ある森家を絶やすのは惜しいと思いました。
「いや、わしのために死んでいった長可の家族を粗略に扱うわけにはいくまい」と言って仙千代に森家を継がせたのです。

こうして仙千代は元服して忠政と名乗り、兄の遺領である7万石を継ぎます。さらに秀吉の元で功績を重ねて川中島15万石、そして関ヶ原の戦いでも認められ、津山18万石の国持ち大名に出世したのです。

羽柴秀吉と徳川家康が対決した戦いを「小牧の役(えき)」と呼びますが、長久手の戦いはその一部です。
現在の愛知県小牧市周辺で対峙した両軍ですが、決定打がないまま時は過ぎ、膠着状態となってしまいました。
そこで長可と池田恒興が秀吉に作戦を提案します。これは「中入(い)り」というもので、がら空き状態となった家康の本拠三河に軍勢を進めるものでした。そうすることで動かない徳川軍を動かそうとしたのです。

 

ところが作戦は家康に読まれていました。秀吉の甥秀次が大将となって軍を進めるのですが、後を追って待ち伏せされ、不利な状況で戦わざるを得なかったのです。長可は勇猛に戦いますが、鉄砲で狙い撃たれて即死したといいます。

長可は亡くなったのですが、ただ一人残った仙千代こと忠政が家督を継ぎました。しかし森家の不幸は終わってはいなかったのです。まるで何かに魅入られたかのように…
忠政の庶長子である重政は26歳の若さで没し、次男虎松も11歳で亡くなりました。唯一残った3男忠広ですら狂気に憑りつかれるようになり、30歳で病死したといいます。

もはや何かの呪いや因果としか考えられないほど、森家は不幸に見舞われたと言えるでしょう。

仙千代には、跡を継いでほしくない。それが長可の遺言だった!?


小牧の役の直前、次男長可は遺書をしたためていました。自分にも死神の魔の手が迫っていたのか?うすうす感じていたのかも知れません。そこには、自分の持っている茶器は秀吉に引き渡してほしいこと、母の妙向尼を京都に移す算段をするべきこと、そして「娘たちを武士に嫁がせるな!」とも言っています。夫が死んだら妻は若後家(若い未亡人)になるからでした。遺された妻と家族の悲しみを、長可は何度も見ていたからでしょう。

さらに弟の仙千代については、家督を継がせないことを懇願しています。また然るべき人物を金山へ移し、仙千代は秀吉のもとで奉公するようにと念を押していました。長可は多くの家族の死と直面し、向き合い、悲しみを経験してきました。自分の死後、同じような悲しみを仙千代に押し付けるわけにはいかない。そう感じたのでしょう。武士の中の武士。「鬼武蔵」の言葉だけに、深く心に沁みますね。
母妙向尼が「世の中に、武士ほど儚いものはない」と語ったその想いは、もしかすると長可自身の想いだったのかも知れません。

その後、京都で隠棲生活を送った妙向尼ですが、亡くなった夫や子供たちに会いたいという気持ちは日増しに強くなるばかり。ついにその願いがかなえられたのは慶長元年(1596年)のことでした。夫や嫡男の死から実に26年が経過していたのです。

死というものが身近にあった戦国時代には、誰もが人の生き死にと無関係ではいられませんでした。だからこそ家を残し、子孫を繁栄させることが美徳とされたのです。
森ファミリーのように、幸せな生活から一転して家族が崩壊するような経験をした家は決して少なくはありません。苦難の境遇に耐え、それでも必死になって家を守り抜こうとする姿勢は、やはり現代の私たちも学ぶことはたくさんあることでしょう。家とは何か?家族とは何か?そんなことを見つめ直したいものです。

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