城主が怪死する岐阜城の呪い篇


今、ちょっとしたお城ブームが続いていますよね。テレビのバラエティ番組でお城が紹介されたり、大きなお城イベントが開催されたりなど、子供や女性ファンも増えているそうです。
しかし忘れてはけません。もともと日本のお城は、武士たちが命をかけて戦った合戦の舞台であり、軍事施設だったということを。

そこには戦いで敗れた武士たちの「怨念」や「呪い」など、さまざまな負のエネルギーが渦巻いています。
この【ふしぎ、お城ミステリー】では、いつもの観光とは違った、お城が持つもう一つの表情を、紹介していきたいと思います。

今回は、織田信長が「天下布武」を掲げたことで知られる岐阜城です。日本100名城でもありますね。
さて、ここには、どんなミステリーがあるのでしょうか?じっくりと紹介していきましょう。

長良川が流れる風光明媚な岐阜。その中でも最大の観光スポットが岐阜城です。毎年、大勢の観光客が詰めかける人気のお城ですね。しかしここには、決して観光パンフレットには記載されることがない、知られざるミステリーが存在します。それは、「岐阜城の城主は、なぜか無残な死を遂げる」という伝説です。
歴代城主たちにいったい何が起こったのか?岐阜城の歴史を振り返りつつ、検証してみましょう。

実の息子に殺された初代城主 ①斎藤道三


岐阜はもともと井之口という地名でした。天文8年(1539)年に、美濃(現在の岐阜県西部)の斎藤道三が、稲葉山にお城を築いたが始まりです。当時は稲葉山城と呼ばれていました。斎藤道三は、「美濃のまむし」と呼ばれるほどの権謀術数に巧みな人物で、裏切りや暗殺によって、美濃一国を治める地位にまで登りつめました。いわゆる下剋上と呼ばれるものですね。

しかし悪事に手を染めて戦国大名となった道三には、常に悪い噂が付きまといます。たとえば、嫡男・斎藤義龍は「実の子供ではない」という噂です。義龍の母・深芳野は、もともと美濃の守護を務めていた土岐頼芸の愛妾(めかけ)でした。そして義龍を身籠ったまま、重臣の道三へ与えられたのでは?と噂されていました。その後、道三は自分の主君である土岐頼芸を追放しています。

そんな道三は天文16年(1547年)に、家督を義龍に譲って隠居しますが、「自分の本当の父は、土岐頼芸である」と信じ込んだ義龍は、父・道三と義絶し、さらに弟二人を殺害して敵対関係となります。そして長良川の戦いで道三軍と義龍軍が戦い、道三は実の息子の手によって討死しました。多くの悪事に手を染めた道三の最期は、まさに皮肉なものですね。

ひと昔前の通説によると、道三は油売りの商人から身を興し、一代で美濃の国盗りに成功したとされていました。ところが近年の研究で、どうやら親子二代によるものがわかってきたのです。まず油売り商人だったのは父親で、やがて伝手(つて)を頼って土岐家に仕官。そして息子の道三が重臣に昇りつめて次々にライバルたちを排除したというもの。父の代に家臣として実績を積み、息子が一気にステップアップした感じだったのでしょう。

道三が最期を迎えた長良川の戦いでは、悪事を重ねてきた道三に味方する武将はあまりいなかったそうです。道三はそれでも果敢に戦いますが、数倍の義龍軍にはかないませんでした。まさに因果応報といえるでしょうね。

ちなみに道三時代の稲葉山城(いわゆる岐阜城)ですが、当時は天守もなくて質素な造りだったようです。基本的に道三は麓で屋敷を造営し、普段はそこに住んでいたと思われます。
しかし近年では道三時代の石垣も発見されていて、これからの調査が待たれるところでしょう。

道三の呪いで急死した? ②斎藤義龍


さて道三の死後、稲葉山城主となった斎藤義龍ですが、なぜか彼は長生きできませんでした。戦いの5年後にあたる永禄4年(1561)年、35歳の若さで突然急死したのです。義龍の死因についてはハンセン病だったなど、いくつかの説があるようですが、実際のところはわかりません。

しかし当時から囁かれていた逸話があります。それは亡き道三の怨霊によるものだということ。
道三の亡霊が毎夜のように義龍の枕元へ現れ、恨みの言葉を吐き続けたそうです。体が頑健だった義龍ですが、次第に精神を病むようになり、ついに還らぬ人となりました。
井之口の人々は、「きっと道三の亡霊に取り殺されたのだ」と噂したということです。

道三の息子・義龍という人物は、背が2メートル近くもある大男だったようです。馬にまたがると両足が地面に付いてしまうほどだったとか。しかし剛勇だけの男ではありません。家臣たちをしっかり統制し、合議制によって政治を進めようとしました。そのおかげで美濃は安定した国となりました。もし義龍が長生きしていれば、織田信長もやすやすと美濃を手に入れることは出来なかったかも知れません。

また義龍は、よほど父のことが嫌いだったのでしょう。父を倒したあと、斎藤の姓を捨てて一色姓を名乗っています。「一色」とは室町幕府に連なる名族にあたり、実は母の深芳野は一色家の出身だったとも。やはり義龍が土岐家の血を継いでいるのは本当のことだったのかも知れませんね。

酒色におぼれ、無残な最期を遂げる ③斎藤龍興


義龍が急死したことで、急きょ14歳で美濃国主、そして稲葉山城主になったのが、義龍の嫡男・斎藤龍興でした。通説によれば、龍興は暗愚のうえ、酒色や遊興に溺れ、家臣から見放されていきます。一時は竹中半兵衛によって城を追い出されたことも。

永禄10年(1567年)、攻め寄せてきた織田信長によって国を追われます。もうその頃には付き従う家臣もほとんどなく、寂しく美濃を脱出するという哀れさだったそうです。やがて伊勢長島や畿内を転々と流浪した龍興は、最後に越前一乗谷の朝倉氏を頼ります。しかし天正元(1573)年、朝倉軍の客将として参陣し、越前刀禰坂(とねざか)の戦いで首を討たれました。こうして斎藤家三代は、いずれも無残な死を遂げたのです。

龍興は暗愚だったとされていますが、その実像が後年になって捻じ曲げられたという説もあります。龍興が家督を継ぐと、重臣たちの合議で国を動かすようになり、龍興の出る幕などありませんでした。14歳という年齢は、ちょうど難しい年頃です。思春期や反抗期にあたりますから、「自分が除け者にされている」という疎外感を感じていたのかも知れません。だから酒や遊びにベクトルが向かってしまったという感じでしょうか。

そんな龍興も、美濃を追い出されてから立派な武将に成長しています。畿内で三好三人衆に味方して信長と戦ったり、最後の戦いとなった刀禰坂でも、敗走する朝倉軍を逃がすため、最後まで踏みとどまって討ち死にしました。そんな勇敢な武将の姿が垣間見えますね。
またキリシタンとなった龍興は、優しい性格だったとされています。貧しい者を手助けしたり、施しを与えるなど、とても暗愚とは思えない人物像がうかがえます。

本能寺で非業の死を遂げた ④織田信長


斎藤龍興を追い出し、永禄10年(1567)年、稲葉山城に入ったのが、皆さんご存知の織田信長でした。
そして信長は稲葉山城を「岐阜城」と名を改めます。これは中国の故事にならったもので、周の時代に「岐山(きざん)」という場所に都を置き、そこを拠点にして殷(いん)の国を滅ぼしたという史実から取ったものでした。信長としては岐阜を拠点にしたことで、これから京都を狙うという意図を明確にしたのでしょう。

また、この頃から「天下布武」の印を用いて、天下統一を宣言し、安土城へ移るまで9年も在城しました。しかしご存知のように、天正10年(1582)年、「本能寺の変」で明智光秀の襲撃を受け、非業の死を遂げてしまうのです。

信長がなぜ岐阜城を天下取りの拠点としたのでしょう?それは岐阜の立地にあります。それまで拠点としていた尾張の小牧山城では京都までの距離が遠すぎ、軍勢を西へ行軍させるには時間がかかります。
いっぽう岐阜ですと、東山道を通って関ヶ原を抜ければ近江へ出ることができ、距離的にも京都に近いのです。岐阜から京都までは3日ほどで行けるわけですから、信長としては都合が良かったのでしょう。また岐阜城は、金華山という高い山の頂に立つ城です。天下人の城として誰もが見上げるシンボルとしたかったのかも知れません。事実、のちの安土城でも家臣団の屋敷を麓に造成し、信長は誰よりも高い場所にいたわけです。こうした視覚効果で、家臣との上下関係を示したかったのでしょう。

二条御新造(ごしんぞう)で自刃に追いやられた ⑤織田信忠


信長は天正4年(1576)年、安土城へ移る際に、嫡男・織田信忠へ家督とともに岐阜城を譲りました。しかし信忠もまた、6年後の天正10年(1582)年、「本能寺の変」で信長が討たれた際、さほど離れていない妙覚寺で宿泊していたのです。
明智軍の襲来を予測した信忠は、すぐさま守りに適した二条御新造へ移り、防戦準備を整えました。

しかし、たった500の兵では1万に近い明智軍を防ぐことなどできません。奮戦虚しく、信忠は自害して果てたのです。

織田信忠は、父・信長ほどカリスマ性はなかったものの、勇敢で智略に富み、家臣からの信望も厚かったそうです。26歳という若さで亡くなったため、あまり評価されないことも多いのですが、もし信忠が生きていれば、間違いなく織田家は繁栄していた。と考える研究者も多いですね。

それにしても、なぜ信忠は父・信長とさほど離れていない距離にいたのか?多くの説があるようですが、大きな謎とされています

本秀吉に敗れ、無念の死を遂げた ⑥織田信孝


信長の死後、「清洲会議」が開かれ、領地の分配などの取り決めが合意されました。この時に三男・織田(神戸)信孝は岐阜城を与えられています。ところが織田家の宿老・柴田勝家と羽柴秀吉が対立を深めていくのです。次男の織田(北畠)信雄は秀吉に付き、信孝は勝家に味方しました。しかし天正11年(1583年)に起こった賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れたため、信孝は岐阜城を明け渡して降参。やがて尾張の大御堂寺(おおみどうじ)へ送られて自刃しました。在城10ヵ月という最も短い城主だったのです。

清州会議で織田信忠の子・三法師(さんぼうし)が家督を継ぎ、織田の家督を信孝が継げなかった。だから信孝は秀吉に深い恨みを持った。これが今までの通説でした。
しかし近年の歴史研究によると、実は家督を継ぐのは三法師だと最初から決まっており、信孝がその後見役に収まっただけのことです。信孝は三法師を岐阜城で預かりますが、いずれその身柄を安土城へ移すという約束になっていました。ところが三法師を手元に置くことで、その後の主導権を握ろうとした信孝ですから、いつまで経っても手放そうとしません。そんな勝手を秀吉が許すわけもなく、「約束違反だ!」ということで討伐に乗り出し、とうとう三法師を取り上げてしまったのです。
これに恨みを抱いた信孝は、勝家と結託して挙兵し、最後は滅亡への道を歩むことになりました。

「小牧・長久手の戦い」で戦死した ⑦池田元助


柴田勝家を滅ぼしたことで、天下取りの道へ前進を果たした羽柴秀吉は、天正11年(1583)年、新たな岐阜城主として、盟友池田恒興の嫡男・池田元助(輝政の兄)を任命しました。しかし、元助もまた天正12年(1584年)に起こった小牧の役(えき)に参陣。長久手の戦いで徳川軍と激闘を繰り広げ、壮烈な戦死を遂げました。

父・恒興、弟・輝政の陰で、あまり目立たない存在の池田元助ですが、戦いになると抜群の戦功を挙げ、優れた大将ぶりを発揮したといいます。信長も将来を期待していたらしく、池田家が持つ軍勢の采配を任せたとも。
しかし長久手の戦いでは相手が悪すぎました。満を持して待ち構えていた徳川軍は、周到な備えで池田隊を捕捉し、奮戦虚しく父・恒興とともに討ち死にしたのです。
戦死したのは20代前半だったといいますから、もし生きていれば、大きな器量を備えた武将になっていたことでしょう。

呪いから逃れるように移封した!? ⑧池田輝政


兄の元助が戦死したあと、秀吉は池田家に報いるために、弟の輝政を岐阜城主に任命しました。しかし、これも岐阜城の呪いのためでしょうか、輝政は何度も体の不調を訴えていたそうです。やがて在城してから6年後、ついに生きたまま岐阜城から離れることができました。
秀吉が関東の雄北条氏を滅ぼしたことにより、徳川家康が関東へ移封となります。そして家康の旧領である三河へ輝政が移されました。三河の吉田城へ入った輝政は、さぞかし安心したのかも知れません。しかし呪いはまだ解けてはいなかったのです。

実は池田輝政という人物、極端に背が低かったという説があります。福島正則や加藤清正ら豊臣恩顧の大名たちと宴会をした際、正則がからかって言いました。
「輝政殿は武勇があるのに背が低いのう。もったいない」
すると輝政はこう切り返します。
「わしは大名となり、広大な領地も持った。今さら背の高さまで欲するのは欲張りであろうよ」
これには酒席にいた大名たちも爆笑したとか。そんなユーモラスな一面を持つ人物だったようです。
岐阜城にいた輝政が生きながらえたのも、もしかすると天性の明るさがそうさせたのかも知れませんね。

朝鮮出兵でまさかの病死!? ⑧豊臣秀勝


天正19年(1591)年、天下人となった豊臣秀吉は、甥の秀勝を養子に迎え入れ、岐阜城主に抜擢しました。ゆくゆくは豊臣の将来を任せたい。そんな思惑があったのでしょう。また秀勝は武勇に優れ、人を引っ張る力量も持ち合わせていたようです。しかし、秀勝は2年後に朝鮮へ出兵中、あっという間に病気となってしまいます。そして故国へ帰ることなく息を引き取ってしまいました。

この豊臣秀勝という人物は、秀吉の姉の子にあたります。ちょうど関白となった秀次の弟でした。秀吉は秀勝の将来をかなり期待していたらしく、浅井三姉妹のひとり「江」を正室としたことから見ても、織田と豊臣を繋ぐ架け橋を担う人物だと考えていたのかも知れません。
しかし24歳の若さでこの世を去り、秀吉は悲嘆に暮れたといいます。それにしても秀吉は実子も含めて3人の男子に「秀勝」という名を付けていますが、いずれも早くに亡くなっています。何かの因果を感じずにはいられませんね。

戦いに敗れ、高野山に入るが変死した ⑩織田秀信


文禄元年(1592)年、織田信忠の嫡男・秀信が成長し、10人目の岐阜城主となりました。やがて慶長3年(1598)年に豊臣秀吉が死去し、同5年に天下分け目の「関ケ原の戦い」が起こります。
西軍に属した秀信は果敢に打って出るも敗北を喫し、岐阜城で籠城しました。しかし東軍3万の攻撃を受けて落城し、秀信は剃髪して高野山に入るものの、その5年後に急死しました。一説には自害したとも伝わります。

秀吉が天下人となっていく過程で、微妙な立ち位置となった織田秀信ですが、岐阜城主となった頃には豊臣の天下は定まっていました。もはや秀吉のほうが主君であり、自分は一大名に過ぎなくなったわけです。
そして運命の関ヶ原の戦いで、秀信は大きな賭けに出ました。勝利した暁には「美濃・尾張」が与えられることを石田三成から約束されており、織田家復興のために立ち上がったのです。しかし結果は散々でした。東軍の福島正則・池田輝政から袋叩きに遭い、惨めな敗北を喫しました。また輝政はかつて岐阜城主だったこともあり、城のどこを攻めれば落ちるかがわかっていました。秀信は西軍に付くべきではなく、東軍に味方するべきだったのです。
さて、関ヶ原の戦いで勝利し、天下人となった徳川家康は、岐阜城を奥平信昌に与えました。しかし「城主が不慮の死を遂げる」という噂を聞いていた信昌は、いわくつきの岐阜城を嫌い、平野にあって利便性の良い加納城を改修して居城とします。その後、岐阜城は廃城となって忘れられた存在となったのです。

岐阜城主の中で、唯一生き延びた池田輝政ですが、話にはまだ続きがあります。輝政は関ヶ原での功績によって、慶長5(1600)年に三河吉田城から播磨の姫路城へ加増転封となりました。まさに大躍進です。しかし入城直後から輝政の周辺では奇怪なことが起こります。

輝政は姫路城の大改修を行いますが、工事中に、小姓が深夜に不思議な女を目撃したり、誰もいない夜中に明かりが漏れていたり、奇怪な現象は続きました。
そしてついに、輝政は病に倒れて慶長18年(1613年)に亡くなります。死因は中風いわゆる脳溢血でした。この姫路城の怪談話は江戸時代につくられた『諸国百物語』にも収録されています。

さて、岐阜城主10人の命を奪った呪いとは何だったのでしょう?実は現在の岐阜城が建っている金華山は、古くから山岳宗教の地だったそうで、1000年以上も前から伊奈波神社が鎮座する聖域でした。それを斎藤道三が神社を麓へ追いやり、山全体を城郭としました。定かではありませんが、歴代の城主たちが受けた呪いは、この事と関係しているのかも知れません。

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