知られざる武将の横顔 生涯に3度心からの涙を流した“第六天魔王”織田信長


良く言えば苛烈・峻烈、悪く言えば冷酷無比。そんな戦国武将と言えば、そう織田信長ですね。

信長は実の父親・織田信秀が亡くなった時でさえ、涙一つ見せませんでした。それどころか大事な葬儀の日にも、喪主でありながらふらりと遊びに出かけてしまいます。周りの者に諫められ、なんとか葬儀の席には出て来ましたが、茶筅髷に帯がわりの縄を腰に結びと、普段通りの無作法な格好です。あげくに抹香を鷲づかみにして、位牌へ投げつける狼藉振り、心ある家臣は織田家もこれまでかと嘆きあいました。

この後も弟・信行を殺害したり、叔母・おつやの方を残酷な逆さ磔で処刑したりと、身内にさえ容赦はしません。挙句に「我は第六天魔王なり」と宣言しています。

そんな信長ですが、生涯に3度、心からの涙を流しました。“第六天魔王”が流した涙とはどんなものだったのでしょう?

家族からも疎まれた若き日の信長


ここに平手政秀(ひらてまさひで)と言う、織田家に仕える武将が居ました。政秀は織田家の二番家老で、傅役(もりやく)として信長を育てた武将です。あの信長の傅役ですから、さぞ苦労なさったと思いますが、最後には信長を諫めるため、腹を切って果てました。

信長と言えば、若い頃の勝手気ままな振る舞いが有名です。当時の書物にも「16、7の頃までは、朝夕は馬の稽古、3月から9月までは川に入り、水練もご上達。竹槍の試合を見るのが好きで、槍の使い方にも細かく注意を与えて」などと書かれています。

ここまでは武将としてまぁ良いのですが、続けて「着物は方肌脱ぎで、腰には瓢箪や火打ち袋をぶら下げる。髪は紅や萌葱の派手な色紐で高々と結い上げ、柿や餅を街中でかぶりつく」などとても大名家の跡取りとは言えない行儀の悪さです。この行状から“織田の大うつけ”との綽名が定着しました。

この有様に愛想をつかしたのが、他ならぬ信長の親兄弟たちです。信長以外の家族は末森城(すえもりじょう)に住んでいるのに、信長一人那古野城(なごやじょう)に置き去りにされてしまいます。「織田信長は、幼い頃から那古野城の城主だった」と言えば聞えは良いのですが、実際は家族や家臣たちから見放され、仕方なく那古野城に住んでいただけです。

家族中が顔をしかめた信長の振る舞いですが、特に嫌ったのは生みの母親である土田御前(どたごぜん/つちだごぜん)でした。うつけ者と評判の信長より、品行方正の弟信行の方が可愛かったのでしょう。うん、わかるよお母さん、でもね品行方正だけじゃ戦国の世は乗り切れない。
弟を偏愛し、自分にはつらく当たる母親。この幼い時のトラウマが、女性一般に対する嫌悪感を信長に植え付け、生涯女を信用せず、嫌った性格を作ったと言えるでしょう。

唯一の理解者、傅役・平手政秀が自害。
悔い改め、生まれ変わるか信長


そんな信長を唯一庇ったのが、傅役の平手政秀でした。この人は織田家の重臣で、茶道や和歌も嗜む文化人、厄介な朝廷や公家との折衝にも活躍しました。信長の父信秀に見込まれ、跡取り息子・信長の傅役を仰せつかります。政秀は信長が外聞の悪い行いをしても、父・信秀に頭を下げ、母・土田御前に取りなしと、懸命に信長を守りました。おそらく織田家中で唯一の信長の味方だったでしょう。

天文15年(1546年)の13歳の信長の元服や、翌年の初陣の際には、織田家の世継ぎとして恥ずかしくないように、支度を整えてやります。美濃の国守斎藤道三の娘濃姫との婚儀でも、甲斐甲斐しく世話を焼きました。

しかしそんな政秀も、信長の収まらぬ行状に、ほとほと疲れ切ったのでしょう。天文22年(1553年)「このままでは、織田家の先行きが思いやられます。これが爺の最後の言葉。これより先は、なにとぞ、なにとぞ、当主としての自覚をお持ちくだされ」そう言い残し、政秀は自害して果てました。まさに命を懸けた諫言(かんげん)、時に政秀61歳でした。

これまで辛抱強く信長を見守って来た政秀を、そこまで追いやったものとは何だったのでしょう。一つには政秀の長男・五郎右衛門が持っている、素晴らしい馬に目を付けた信長が、自分に譲るようにと迫ります。五郎右衛門が断ると、激しいイジメが始まったとか。この信長の、主君にあるまじき狭量振りに愛想が尽きた説。

もう一つは、天文21年(1552年)に父・信秀が亡くなり、信長が織田家の当主なったにもかかわらず、一向におさまらない信長の素行の悪さに、傅役としての限界を感じた説です。

さすがの信長も、家中で唯一自分をかばってくれた政秀を無くし、かなり落ち込みました。信長は涙を流し、その死を悼み、春日井郡小木村(小牧市)に政秀の菩提を弔う寺・政秀寺を建立し、冥福を祈りました。(現在、政秀寺は名古屋市中区にあります)

信長は政秀の命を懸けた諫言が応えたらしく、いままでの常軌を外れた行いを反省し、生まれ変わったと言います。信長が20歳の時の出来事です。

政秀のように、自分の命を絶って目上の者を諫めることを、“諫死(かんし)”と言います。日本史上にも、諫死を遂げた人間は何人か見られますが、どうにもならない主君を持ってしまった時は、むしろ“主君押込”の方が主流でした。これは鎌倉時代から武家社会で見られるようになった慣行で、主君の行状が目に余る場合、その権限を取り上げ、文字通り何処かへ押し込めてしまいます。
謀反のように命まではとらなかったので、それよりは穏やかなやり方でした。

「村木砦の戦い」手塩にかけた育てた鉄砲隊兵士の死に、
涙した信長


さて信長が2度目に泣いたのは、平手政秀の自害の翌年、天文23年(1554年)に起こった「村木砦の戦い」での話です。信長は戦国大名の中でもいち早く鉄砲の有効性を見抜き、戦いに取り入れたことで有名です。その信長が、初めて鉄砲隊を組んで戦場に臨んだのが、この今川軍との「村木砦の戦い」でした。

この時の信長は、もうかつての「大うつけ」の信長ではありません。政秀の命を懸けた諫言によって生まれ変わった信長です。「村木砦の戦い」の頃、織田家の実状は苦しいものでした。信秀の時代には、尾張の多くの大名たちが織田家と連携を取っていましたが、「うつけ」が跡を継いだと言うので、大名たちの心も織田家を離れ、連携もばらばらになってしまったのです。

そんな時に起きた「村木砦の戦い」は、織田家にとって厳しい戦いになりました。鉄砲の威力で何とか信長軍が勝利を手にしましたが、手塩にかけて育て上げた鉄砲隊の兵士が、数多く死んで行きました。信長はその亡骸を見ながら「お前も死んだか。お前もか」。そう言って涙を流したと言います。普通は総大将は、末端の兵士が死んだからと言って泣いたりはしません。「自分が育て上げた鉄砲隊」信長にもそんな思い入れがあったのでしょう。

この後も信長は、鉄砲隊の育成に力を入れます。そして迎えた武田と雌雄を決する長篠の戦いに、信長は実に3000挺の鉄砲を揃えて臨みました。そもそもこの戦いは、織田・徳川家合軍3万8千、武田軍1万5千と、倍以上の戦力の差がありました。加えて武田の総大将勝頼の、暴走気味のまずい指揮もありました。しかしそれ以上に“3000挺の鉄砲”の威力は大きく、戦国最強と言われた武田騎馬軍団は壊滅、信長は本格的に天下取りに歩み出します。

信長は武器としての鉄砲の優秀さを見抜き、いち早く戦いに取り入れた人物として知られます。しかし鉄砲を使いたかったのは、何も信長だけではありません。他の武将たちも、喉から手が出るほど欲しかったのです。ただ当時の鉄砲は高価でした。なぜ信長が大量の鉄砲を買えたのか?
それは信長がお金持ちだったからと言う、わかりやすい理由です。織田家は流通の一大拠点の、津島(愛知県津島市)を握っていました。そして信長は、後の楽市楽座を見ても判るように、戦いにおける経済の大切さを理解していたのです。
そして信長は近江に進出し、国友村を鉄砲の一大産地としました。また後年大坂の堺を掌握し、銃弾や火薬を入手するルートを押さえました。

信長が生涯にただ1人愛した女性、生駒吉乃(いこまきつの)


信長は女嫌いと言うか、女性と言うものを全く信用していませんでした。実の母・土田御前に疎まれ、弟ばかりを可愛がる母の姿を見ながら、寂しい幼少期を過ごしたせいでしょう。女とはそう言うつまらぬものと、刷り込まれてしまったようです。

信長も正室は迎えましたが当然政略結婚で、相手は美濃の国守斎藤道三の娘濃姫です。美濃と尾張の攻守同盟の証としての婚儀でした。15歳で嫁いできた濃姫ですが、信長との間に子供は出来ませんでした。そのうち父親の道三は、実の息子の義龍(よしたつ)と争い、敗れて死んでしまいます。もともとが道三の力を当てにしての政略結婚ですから、こうなると夫婦でいる意味も無くなりました。これ以降の濃の消息はよくわかっていませんが、国へ返されたとも、早世したとも言われます。

この後信長は2人目の正室、つまり継室は迎えていません。しかし正室として扱った女性は居ました。それは信長が生涯にただ1人、心から愛し信頼しその早すぎる死に、涙した女性です。彼女の名前は、生駒吉乃と言います。

鷹狩りのおり休息に訪れた家で、その家の美しい娘に出会う。心惹かれるまま一夜の契りを結び、翌朝後々の証拠にと脇差を与えて別れて行く。物語にある話ですが、信長と吉乃の出会いも、このようなものでした。一つ違っていたのは信長は、その娘に惚れこみ、その後も足繁く通い、とうとう子供までもうけてしまったのです。あの信長の心を捉えた吉乃とは、どのような女性だったのでしょう。

信長の正室として扱われるも病に倒れる吉乃、
最愛の女性の死に涙する信長


伝えられる話では吉乃は、色白の細面の美女でやさしく控えめな人柄、信長よりも6歳年上でした。尾張の国丹羽郡小折村(にうぐんこおりむら)の豪族、生駒家宗(いえむね)の娘で、夫を戦で亡くし実家に戻っていたところを、信長に見初められました。

せっせと通う信長との間には、ほどなく長男奇妙丸(きみょうまる)、後の信忠が生まれます。その後も信長の寵愛は深く、次々と年子で次男茶筅丸(ちゃせんまる)、後の信雄と長女の五徳(ごとく)、後の徳姫が誕生します。「腹の空く暇がない」と言われるほどの寵愛振りですが、これが吉乃の健康を損ねました。

五徳の出産後、吉乃は産後の肥立ちがおもわしくなく、寝込んでしまいます。信長は小牧山城を築き、吉乃を御台御殿(みだいごてん)に迎えようとしていました。しかしその頃には、吉乃はもう起き上がるのもやっとの身体になっていました。信長は生駒家に駆け付け、病床の吉乃の手を取ります。「そなたのために新しい御台御殿を用意してある。そこでゆっくり養生なさるが良い」と励まします。

信長の言葉に力を得て、吉乃は輿に乗せられ小牧山城に移ります。信長は吉乃の手を取り、“御台の座”に座らせます。“御台の座”と言うのは正室の座る場所で、信長はこの時吉乃を正室として扱いました。吉乃の3人の子共と重臣たちにも、主君の正室として挨拶させています。信長のせっかくの心遣いでしたが、この時の無理がたたったのでしょうか、『信長様、八方手を尽くし御介抱され候も、薬石の効無く遂に御逝去』と“武功夜話”にもある通り、翌年永禄9年(1566年)吉乃は息を引き取ります。

吉乃を失くした信長の落胆ぶりは激しく、人目もはばからず三日三晩泣き明かしました。それ以降は日ごと小牧山城の望楼に登り、吉乃が葬られている久昌寺(きゅうしょうじ)の方角を見つめて、涙していたそうです。信長33歳の時の事でした。

信長であれば天下の美女も、高い位の公家の息女も、選び放題だったでしょう。しかし信長が側室としたのは、位も低く名前もろくに伝わっていない女性たちでした。信長は他の武将と比べても、非常に巧みに婚姻関係を、政略の道具として使いました。しかし自分に対して、そのような策略を使われるのは我慢ならなかったようです。側室には自分の政策に口出しできないよう、実家の身分も低く、権力を持っていない家の女性を選びました。

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