関ケ原合戦、主君大谷吉継の首を命を懸けて守り通した忠臣湯浅五助


泣かずにはいられない。
かつて日本には、こんなにすごい武士(もののふ)がいた。
時は戦国時代、自分の命を投げ出し主君の名誉を守った男が居ました。舞台は「関ケ原の戦い」。主君の名は悲劇の名将・大谷吉継。
彼は重い病と闘いながらも、西軍のリーダーだった石田三成との友情に報いるために、負けると分かっていた「関ケ原の戦い」へ西軍として出陣しました。
そしてそんな吉継には、相応しい忠臣が付き従っていました。湯浅五助(ゆあさごすけ)と言う男です。
五助は最後まで吉継に従い、吉継の名誉のためその最後の言葉を守ろうとして、自分の命を差し出しました。
さらにもう一人、敵味方を超え情けを知り、五助の覚悟に応えるため自分も命を投げ出そうとした男が居ます。東軍の武将・藤堂高刑(とうどうたかのり)です。
そして吉継の死後彼の墓を建てたのは、高刑の叔父藤堂高虎です。
これら4人の男の間に、どんな物語があったのでしょう。
なぜ敵として戦った高虎が、吉継のお墓をつくったのでしょう。ここに、泣かずにはいられない「武士の生き様」があります。これぞ武士、これぞ武士道。その生きざまをしっかり見て下さいね。

大谷吉継と言う男、
三成との友情の証として敗戦覚悟の関ヶ原参戦


大谷吉継と石田三成は、同じ近江の出身。少年の頃から豊臣秀吉の小姓として仕え、豊臣恩顧の大名の中でも、特に気の合う親友同士でした。お互いが大名になってからも、「紀之介(吉継)」、「佐吉(三成)」と呼び合う仲でした。
しかし、秀吉の死後に三成が徳川家康と争うようになると、吉継は三成とは距離を置くようになります。「秀吉様の御子秀頼様には申し訳ないが、これからの世は家康」世間の動きを見ると、そう思わざるを得なかったのです。
吉継は、家康の命令で会津征伐へ向かう途中、佐和山城に蟄居する三成を訪ねました。家康が上方を留守にしている間に、三成が挙兵するのではないかと危うんで居たのです。「この男に100万の軍勢を指揮させてみたい」このように秀吉に認められたほど、戦いを知る吉継です。例え家康に戦いを挑んでも、三成に勝ち目の無い事はわかっていました。
早まった事はするな、三成を説得するつもりの吉継でしたが、三成に会ったがために、心が揺らいでしまいます。三成の挙兵の意志は固く、熱く理想を語って譲りません。「ならば友よ、ともに滅びるか」吉継は言ってしまいました。吉継は、こうして家康の元を離れ、負けると分かっていながら、西軍として「関ケ原の戦い」に出陣しました。

この時なぜ三成が佐和山城にこもっていたのか。実は三成は豊臣家の中でも、他の大名たちと上手く行っていませんでした。良くある文治派対の武断派の争いでしたが、この確執は、武断派大名たちが、三成の屋敷を襲撃する騒動にまで発展します。ここで三成が助けを求めて駆け込んだのが、なんと毛嫌いしていた家康の元でした。「この騒動、治められるのは家康だけ」三成も家康の力は認めざるを得ませんでした。
家康は双方の間に入って三成を助けますが、三成は騒動を起こした責任を問われ奉行職を解任、居城の近江の国佐和山城に蟄居を命じられてしまいます。蟄居を命じる立場と、命じられ従わざるを得ない立場。関ヶ原合戦以前に、すでに三成と家康の勝負は決まっていました。

「関ケ原の戦い」わずかな兵で奮戦するも、力尽きる吉継


慶長5年(1600年)9月15日、家康を大将とする東軍と、三成を実質的な大将とする西軍は、美濃の国関ヶ原で向かい合いました。名高い「関ケ原の戦い」です。
出陣した大谷吉継は、西軍の参謀格として獅子奮迅の活躍をします。わずか600程度の寡兵ながら、配下の猛将を率いて奮戦し、東軍の諸隊を幾度も後退させました。寝返った小早川秀秋の進撃を阻止するべく激闘します。
この時吉継は以前から患っていた病が進み、顔も爛れ目も見えなくなっていました。それでも四面をとりはずした輿に乗り戦場へ望み、傍に付き従う小姓から戦況を聞きます。懸命に戦闘の指揮を執っていた吉継ですが、四方を敵に囲まれもはやこれまでと覚悟を決めました。馬にも乗れぬ身体では、落ち延びる事も難しいでしょう。この時大谷隊の残兵200人余りはまだ戦っていましたが、多くが敵陣に切り込み壮絶な戦死を遂げました。

小早川秀秋を始め、関ヶ原合戦では西軍に多くの裏切り者が出ました。戦に明け暮れていたように思われる戦国大名ですが、彼らが本気で戦うのは、自分の領地・領国を守る時だけです。関ヶ原合戦のように動員をかけられ参加させられた戦いで、自分の将兵を損ないたくはありません。自分からは動かず、勝敗が決した時に勝ち組の中に残っている事、これが大事でした。彼らの事を“日和見大名”と呼ぶのは、当たっていません。

「儂の首を敵に渡すな」吉継から厳命を受けた湯浅五助


死を覚悟した吉継は、病み崩れた自分の顔を人目に晒したくないと、家臣の湯浅五助を呼んで命じました。「汝介錯をいたして、我が首を決して敵に渡すな」そう言い置き腹を十文字に掻き切ります。主人の苦しみを長引かせたくない、五助は涙ながらに太刀を振り下ろし、吉継の首をはねました。従者の三浦喜太夫(きだゆう)に渡して布につつませます。
五助は山中に分け入ります。辺りに誰もいないのを確かめると、地中深く吉継の首を埋めました。ところがそこへ徳川方の武将・藤堂高虎の甥・藤堂高刑が来かかり、見つかってしまいます。
「儂は徳川の武将・藤堂高虎の甥藤堂高刑と申す者。貴殿はそんなところで何をしておられる」高刑は刀の柄に手をかけて問い詰めます。「隠しきれない」咎められた五助は高刑に向かって平伏し、「西軍の将大谷吉継が家臣、湯浅五助と申す者」と名乗り懇願します。
「主人の最期の願い、病み崩れた顔を人前に晒したくないとの言葉を遺された」「どうか主君の首はお見逃しくだされ!」「無論、ただ見逃せとは申しませぬ…。我が首を差し出しまする!!」高刑は迷いました。家臣の首と、西軍の首謀者とも言うべき吉継の首では全く値打ちが違います。首実検での受け取る褒賞も段違いです。それに東軍の武将として、確かに大谷吉継が死んだ証拠としてその首を持ち帰り、家康に報告せねばなりません。
しかし目の前には、主人の名誉を守るためなら喜んで自分の命を差し出そうとする忠臣が居ます。しかも敵方である自分の前に平伏して頼んでいるのです。
この願いを聞かぬようでは、自分は武士とは言えない。「承知した。大谷吉継殿の首の所在、誰にも申さぬ。吉継殿は良い家臣を持たれた」と答えました。
五助は「有難い、藤堂殿」という言葉を残し、ほほ笑みながら腹を切ったと言います。

主人の最後の言葉を守るためなら、己の命も迷わずに差し出す。これが共に命を懸けて戦場を駆け巡った主従の絆です。もっとも戦国の世では、ためらうことなく主人の寝首を掻き切った家来も多かったのですが。

首実検、家康に問われても武士の約束を守り切った藤堂高刑


関ヶ原合戦は東軍の勝利に終わりました。戦いの後には「首実検」が待って居ます。これは討ち取った敵将の首を大将が検分し、手柄に相応しい褒美を与えるものです。家康を中心に東軍の武将たちが顔を揃える中、藤堂高刑が湯浅五助の首を持って家康の前に進み出ました。
湯浅五助は大谷吉継の重臣で、豪傑として名の知られた男でした。家康はその首を取った高刑を褒めますが、吉継の側近五助なら主君の最後も知っているはず、吉継はどうしたと高刑に問いかけます。
高刑は家康の前にひれ伏し、「湯浅殿の最後の言葉です。主人の首のありかは、誰に問われようとも秘してくれと頼まれました。これは湯浅殿が一命を賭しての頼み、破れませぬ」と答えました。家康はじっと高刑を睨みつけます。
「儂に聞かれても申せぬと言うかっ!」家康の怒りを受けて、高刑は覚悟を決めて答えました。「武士としての拙者と湯浅殿との約束でございます。どうしても言えとおっしゃるのであれば、我が命はいりませぬ。どうぞ、拙者をお斬りください」
「じっと高刑の顔をにらみつけていた家康は、突然、背後に立て掛けてあった槍を手にします」「忠義を貫いた五助も、その想いに応えた高刑もあっぱれな事じゃ、この槍を取るが良い。お前のようなものを臣下に持ち、儂も嬉しい」「皆の者も見るが良い、これが武士と言うものぞ」

友諠のために勝敗を度外視して戦いに赴き死んで行った吉継、主君の名誉を守るために己の命を差し出した湯浅五助。そして二人の最後の思いに応えるため、大手柄となる吉継の首を差し出さず、切腹覚悟で匿った高刑。それを許した家康。ここですね、ここ。これぞ武士(もののふ)の生き様です。

大谷吉継と湯浅五助の墓を建てたのは、東軍の武将・藤堂高虎


現在、関ケ原古戦場の大谷陣所跡よりもう少し山の中に入ると、大谷吉継の墓として「宝篋印搭」が建てられています。そしてその斜め後ろには、控えめにもう一基墓が建っています、湯浅五助の墓です。吉継の墓を立てたのは、藤堂高虎であったと伝えられており、五助の墓は、大正4年(1916年)に湯浅家の子孫の方が建立されたものです。
高虎は生涯に主君を7人も替えた「不義理者」と呼ばれています。本人も「主を7度変えてこそ、武士は一人前」などとうそぶいています。しかし徳川家康だけは、それも事情の有った事として、「当代一の忠義者」と称えました。また高虎は築城の名手としても知られています。外様大名でありながら家康は高虎を側近として重用し、江戸城・駿府城・徳川大坂城など多くの城を高虎に造らせました。

信最後に湯浅五助とはどのような男であったのかを見ておきましょう。五助はもともとは浪人で、30代になってから吉継に仕えました。正式な名前は、湯浅隆貞(たかさだ)と言います。武勇に秀で、特に槍の名手であったといわれます。大谷家中では、静かで物腰の柔らかい人格者と評されました。代々大谷家に仕えた家臣ではないのに、吉継が信頼して、自分の最後を任せたほどの男だったのですから。なお五助が吉継の首を埋めたのは、関ヶ原町と旧春日村の境付近と伝わっています。

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