鎌倉時代を生きた北条家の1日ルーティーン


2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で何かと話題の鎌倉時代ですが、「執権」として幕府を牛耳っていたのが北条家でした。いわば武士たちのトップだったわけですね。
また有数の領地を持ち、日本随一のお金持ちでもあった北条家ですが、やはり贅沢な暮らしぶりをしていたのでしょうか?そこで今回は「北条家の1日ルーティーン」と題し、北条家当主の暮らしぶりを覗いてみたいと思います。

「北条家当主」と「執権」は違う存在だった!?


まず北条家について軽く説明したいと思います。源頼朝から続く源氏将軍が3代で絶えたあと、執権として政治を牛耳ったのが北条家でした。とはいえ将軍がいなかったわけではなく、京都の摂関家や皇族からそれなりの人物を迎えています。いわばお飾りのようなものでしょうか。

このあたりまでは誰もが知る所でしょうか。ところが「北条家当主=執権」だと考えたら大間違いです。執権とはあくまで職責に過ぎないので、誰でもなれる資格はありました。
歴代の執権を見ると、北条の分家がなっている場合もあり、あまり一定していません。その謎を解くカギは北条家嫡流、いわば本家の存在にありました。嫡流の子が元服するまでの間、分家筋が執権を代行していたのです。

北条家嫡流は「得宗家(とくそうけ)」と呼ばれ、全国に広大な領地を持つ武家のトップでした。それこそ絶対的な権力を握った存在だったのです。
ですから「北条家当主=得宗家」という認識が正しいと言えるでしょう。そんなことを踏まえながら、北条家の1日ルーティーンをご紹介していきますね。

ここで執権について補足しておきましょう。執権の役目は将軍を補佐することにありましたが、源実朝で源氏将軍が絶えてしまうと、武家ではない公家や皇族が将軍となりました。そうなると北条家の実力が高まっていたこともあり、政治の実権は完全に北条一門が握ることになったわけですね。

ちょうど室町幕府の管領や、江戸幕府の老中と似ていますが、執権が大きく違うのは、北条家が代々継いでいる世襲制だということでしょうか。
仮に分家筋の者が執権になったとしても、本家いわゆる得宗家ありきなので、嫡流の男子が成長すればスムーズにバトンタッチが行われていました。ちなみに鎌倉幕府が滅亡した際、得宗家を見限った北条一門がほとんどいないことを見ても結束の固さがうかがえますね。

規則正しい生活は武士たちの見本!意外に早起きだった


北条家だけでなく、当時の武士たちは大変早起きでした。朝4~5時には起床して顔を洗い、場合によっては行水や沐浴をすることもあったようです。公家のように化粧をしたり、鏡を見て吉凶を占うなんてまどろっこしいことはしません。また北条家当主が寝坊などできませんから、他の家人が起きるより早く目覚めることもあったようです。やはり当主たる者、皆の手本となる必要がありますよね。

身支度を整えると、さっそく鍛錬が始まります。体を動かしたり馬に乗って遠出をしたり。いつ戦いが起こるかわからない時代ですから、体を鍛えることが大切でした。

そして一汗かいた後に朝食を食べます。当時の武士は朝夕の2食が基本ですが、体力を維持するために1日5食の場合もあったそうです。鎌倉の情勢が不穏だった鎌倉時代初期には、いつでも戦いへ赴けるよう湯漬けなど軽く済ませることも多かったとか。

もちろん北条家当主も常に体を鍛えることを心がけていました。幕府随一の実力者といっても有力御家人の力は侮れません。気を抜けば簡単に追い落とされてしまうのです。そこで権謀術数を駆使しつつ地位を確保し、いつ戦いが起こっても対処できるよう武芸に励んでいました。

食事のメニューについては、お金持ちの北条家といえど質素だったようです。コメは白米ではなく玄米を食し、蒸した強飯(こわいい)にして食べていました。弓を引いたり刀を振るう武士は、歯を食いしばる機会が多く、柔らかいものを食べていては歯が弱ってしまうからです。食事もまた立派な鍛錬だったのでしょうね。

午前中は執務に費やされることが多かった?


鎌倉は「武士の都」と呼ばれますが、執権となった北条家当主は「執権館(しっけんやかた)」と呼ばれる屋敷で政務を執っていたようです。2代執権・北条義時が小町亭という建物をつくり、3代泰時の頃に大倉御所へと移ったとされています。北条政子も大倉御所で幕府の危機に備えたとか。

ちなみに執権館は、代替わりごとに転々と場所を変えていたようで、あまり一定していません。ともあれ政務の中心だったことに変わりはなく、館の周囲には御家人たちの屋敷が立ち並んでいました。

さて午前中は執務に費やされます。といっても書類にサインするだけのお仕事。実務的なことは執権の下に位置する評定衆・連署・引付衆たちがやってくれますから、単に承認するだけでした。
次々にもたらされる書類にサインするだけですから楽かな?と思いきや、そんなことはありません。特に土地の訴訟などは武士の生命線ですから、きっちり把握しておかないと後で恨みを買うことになりかねません。

鎌倉時代初期には「13人の合議制」といった運営システムもありましたが、時代が下って来ると評定衆・引付衆といった組織が構築されました。要は話し合いで決定事項や裁判をおこなっていたのですが、これが権力争いの温床になります。9代執権・北条貞時の時に争いが表面化し、安達泰盛・平頼綱らが相次いで台頭。貞時は権謀術数を用いて彼らを滅ぼし、得宗専制と呼ばれる独裁政治をおこないました。

当時のお仕事は意外に早く終わっていた!?


鎌倉時代の一日は非常に短いものです。特に冬場ですと陽が落ちるのが早いため、すぐに暗くなってしまいます。現代と大きく違うのは、夜になると漆黒の闇になってしまうところでしょうか。できるだけ早めに執務を切り上げる必要がありました。

おそらく特別なことがない限り昼には仕事を終えていたのでしょう。そのあとは自由時間となります。武士らしく流鏑馬や笠懸などの武術を嗜んでみたり、文芸に時間を費やす当主もいたようです。
お金持ちの北条家だけに、さぞかし贅を凝らしていたのでは?と思いきや、意外とそうではありません。とにかく一般の武士たちと同じく、質素倹約・質実剛健を旨としていました。

ちなみに7代執権となった北条政村の館跡からは面白い形の硯が出て来ました。「変形硯」と呼ばれるもので、変わった5角形をしています。これは一度落として割れてしまった硯を修復したものだと考えられます。
新しいものを購入するのではなく、使い慣れたものを修復して使うことが大事だという北条家の家訓だったわけですね。

また第14代執権・北条高時は「闘犬」という変わった趣味を持っていました。犬を戦わせて優劣を競うものですが、高時はこれに大ハマリ。諸国から珍しく強い犬を購入しては没頭していたといいます。この当時の鎌倉には5千頭近い犬がいたとも伝わっていますね。
おそらく執務が終わったあとの時間を、そんなふうにして過ごしていたのでしょう。

鎌倉は武士の都であると同時に宗教都市でもありました。幕府が新興の臨済宗を保護する政策を取ったこともあり、鎌倉五山に代表される寺院があちこちに存在しています。また宋から多くの高僧を鎌倉へ招いており、仏教をベースにした政治文化が花開きました。5代執権・北条時頼の招きを受けて寿福寺に住した蘭渓道隆、8代執権・北条時宗の師となった無学祖元などが知られていますね。
歴代の北条家当主たちも足繁く寺院へ通っていたはずで、午後のひと時を座禅で過ごしていたのかも知れませんね。

夜は接待や酒宴で大盛り上がり!当主は付き合いも大切だった


北条家はもともと伊豆の小豪族。権力を握ったとしても、他の有力者との融和も大切な仕事だったわけです。そのため夜には頻繁に酒宴が催されていました。実は鎌倉時代から酒造りが盛んとなり、当時からよく飲まれていたといいます。
現在のような清酒ではなく濁り酒ですから、アルコール度数もあまり高くありません。ちょうどいいコミュニケーションツールだったはずです。

また「無礼講」というのは鎌倉時代から始まったようで、酒宴の時だけは身分に関係なく酒を酌み交わしていたそうですね。
きっと北条家でも毎夜のように宴会が開かれていたのでしょう。北条館からは土師器(はじき)の他に青磁や白磁といった高級陶磁器も出土しています。おそらく安い土師器は家臣たちと酒を酌み交わす時のために、そして高級陶磁器は有力者を招いた時に用いられていたのでしょう。いわば使い分けていたわけですね。

さて当時は就寝もかなり早いです。遅くとも20時頃には眠りに付いていたことでしょう。といっても布団という概念はまだなく、板敷の床に畳を敷き、敷布団なしで寝ていました。また「夜着(やぎ)」という着物を掛布団代わりにしていたようです。
ちなみに枕は「木枕」といって黒く塗った硬いものでした。頭の部分に布を張って寝ていたとか。

そんな宴会好きな北条家ですから、当主が酒で失敗することもありました。3代執権・北条泰時は和田合戦の際、明け方まで酒宴を催して酔いつぶれた状態だったといいます。戦いの最中、二日酔いで生きた心地がしなかった泰時は、喉の渇きを覚えて部下に水を催促します。ところが差し出されたのは酒でした。心ならずも迎え酒をしてしまった泰時は大いに苦しんだのだとか。「もう酒は飲まない!」そう誓ったそうです。
しかし戦勝の酒宴では、つい酒に手が伸びてしまった泰時。よほどの酒好きだったのでしょうね。

北条家の酒にまつわるエピソードは多く、やはり他者との親睦を大切にした一族だったことがうかがえます。

将軍を除く幕府のトップだからといって、さぼることは許されなかった北条家の当主ですが、武芸に趣味にと楽しみも多かったようです。また得宗家という高い地位にありながら出自の低さは隠せません。そういったマイナス面を、接待や付き合いといったコミュニケーションでカバーしていたのでしょう。生き馬の目を抜く時代にあって、硬軟の使い分けがうまかったと言えるかも知れませんね。

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