「鎌倉殿の13人」のそれぞれの末路


2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ですが、巷でかなり盛り上がっているようですね。今回はメインテーマである13人の合議衆たちについて紹介していきたいと思います。
いずれの人物も初期の鎌倉幕府を支えた功臣たちですが、その後、どのような人生を送ったのでしょうか?あまりメディアでも取り上げられたことがありません。
そこで13人の一人一人について「その後の人生」をひも解いてみましょう。

そもそも「13人の合議制」ってなんだったの?


まず「13人の合議制」について解説してみたいと思います。建久10年(1199年)、カリスマ将軍・源頼朝が死去。次の将軍として嫡男・頼家が就任しました。生前、頼朝はかなりワンマンな人物だったようで、そのやり方は時として強引だったそうです。「次の将軍がまた独裁するのではないか?」そう心配する御家人も少なくなかったとか。

そこで頼家の独裁を抑えるために13人の合議制が敷かれました。将軍の仕事はただ合議の結果を承認するのみ。幕府の運営はこの13人に委ねられたのです。
ちなみに13人による合議は、頼朝の岳父であり頼家の祖父だった北条時政が仕組んだものともされています。将軍の権力を抑え、自分の発言権を高めるためにリーダーシップを取ろうとした。そんな側面もあったようです。

ところが13人による合議制はわずか1年ほどで消滅してしまいます。相次ぐ内紛やメンバーたちの死によって体制が維持できなくなったからでした。

13人の合議には、武士だけでなく公家もメンバーに加わっていたことが知られています。当時の鎌倉幕府は単に東国を支配する武家政権という位置づけに過ぎず、どうしても京都の朝廷とうまく付き合う必要がありました。
だからこそ京都の事情をよく知る公家を呼び寄せ、幕府の運営に参加させたわけです。そういった意味では武官と文官がうまくマッチした組織だったことがうかがえます。

権力の魔物と化した男「北条時政」


まずは合議制の言い出しっぺである北条時政です。言わずと知れた源頼朝の岳父であり、北条政子の実父ですね。もとは伊豆の田舎豪族でしたが、頼朝が政権を打ち立てると権力を握り、やがて頼朝の死とともに権力の魔物と化します。

13人の合議制が崩れ去ったあとは有力御家人を次々に討ち、孫の頼家すら手にかけ、名実ともに実力者となりました。しかしやり口があくどすぎ、自分の娘婿を将軍に就けようとしたことから大きな反発を受けます。
最後は息子・義時と娘・政子から三下り半を突き付けられて没落、寂しく伊豆で生涯を終えました。

時政によって滅ぼされた御家人は数知れず。梶原景時・比企能員・畠山重忠といった有力者が次々に犠牲となりました。いくら北条のためとはいえ、ここまでの悪人ぶりは史上まれに見る存在でしょう。まさに権力に憑りつかれた化け物と呼んでも差し支えありませんね。

真の意味で武士の世を作った英雄「北条義時」


北条時政の次男として生まれた義時ですが、早くから分家を興して「江間」と名乗っています。若くして合議制のメンバーに選ばれたのも北条ではなく、あくまで「江間枠」としてでした。
時政の指示通りに動いていた義時ですが、父のあくどさに嫌気が差したのでしょうか?それとも北条家を継げない鬱憤からでしょうか?姉・政子とともに時政を追放し、2代執権として権力を握りました。

やがて京都の後鳥羽上皇と不和となって戦乱へと発展。承久の乱と呼ばれた戦いは幕府方の勝利に終わり、没収した皇族や公家の領地へ御家人たちをどんどん送り込み、ようやく武士が全国を支配する世を作りました。

義時は次男であるがゆえに、なかなか北条家を継げなかった人です。そもそも石橋山で討ち死にした兄・宗時がいましたし、さらに時政と継室・牧の方との間に生まれた政範が家督継承者となりました。次に政範が急死すると、今度は義時の子・朝時が嫡子として選ばれました。
そんな家督を継げない鬱屈が、父の追放へと繋がったのかも知れませんね。

あの戦国大名・毛利氏のご先祖だった!?「大江広元」


大江広元は幕府政所(まんどころ)の別当となった人物です。広元は武士ではなく公家の出身で、頼朝の死後も幕府で中心的役割を担い、政権の基盤を築き上げました。特に北条シンパとして有名で、時政の策謀に同意しては心ならずも加担しています。

幕府の中でも「将軍に継ぐ地位」と目されていた人物で、経験や博識さにかけては名実ともに幕府を支える柱石でした。また承久の乱では北条政子とともに主戦論を唱え、御家人たちを鼓舞したとされています。
ちなみに四男・季光の系統が安芸国へ土着し、戦国時代には毛利氏として活躍したことは有名な話ですね。

大江氏は奈良時代から続く名族で、小倉百人一首で有名な大江千里・和泉式部・赤染衛門といった優れた歌人を輩出しました。とはいえ藤原摂関家全盛の時代には下級貴族だったらしく、鎌倉幕府に加担したことでようやく陽の目を見たわけですね。

危急を知らせた頼朝の恩人「三善康信」


もともと母が源頼朝の乳母の妹であり、頼朝を幼少の頃から見知っていたようです。伊豆の流人となった頼朝が平家の追討を受けそうになった際、いち早く知らせるなどして危急を救っています。そんな経緯からか厚く信頼され、頼朝死後には合議メンバーとして選ばれました。

幕府内では問注所の執事を務めますが、この人もやはり公家出身だったらしく、寺社関係の実務や裁判の責任者となりました。承久の乱では主戦派に回るも、ほどなくして死去しています。

この人もなかなか陽の目を見なかった苦労人でした。下級貴族ゆえに源氏へ接近し、頼朝が伊豆に流されてからもせっせと京都の情勢を知らせていたようです。頼朝も康信に恩に感じていたのでしょう、文書作成などの実務を評価され、鎌倉で優れた手腕を発揮しました。

当代きっての大金持ちだった!?「中原親能」


先ほどご紹介した大江広元の兄にあたり、政所の公事奉行を務めていました。この人も公家出身で、朝廷と幕府のパイプ役に徹し、その大きな権力は「京都守護」と呼ばれたほど。

実は大金持ちだったことが知られており、鎌倉では広大な邸宅を持っていました。また全国各地に広大な所領を持ち、そこから得られる収入は莫大なものだったとも。そんな親能ですが、承元2年(1209年)に66歳で亡くなっています。

親能は幼少期を相模で過ごし、地元武士・波多野家の婿となりました。そのため流人時代の頼朝と知り合いだったようです。京都での人脈を持っていたことから、たびたび上洛しては鎌倉~京都間の連絡役として活躍しました。

頼朝の片腕として活躍!「三浦義澄」


頼朝が挙兵して以来の功臣で、平家追討に尽力した御家人の一人です。頼朝が征夷大将軍に任じられる宣旨を受け取ったのはこの人でした。
頼朝の死後も合議制メンバーとして重責を果たしますが、ほどなくして病没しています。

頼朝挙兵からずっと付き従った人物で、石橋山で惨敗したあとも懸命に頼朝を支え続けました。また源平合戦での主要な合戦にも従軍。大きな戦功を挙げた義澄は、名実ともに頼朝の宿老となったのです。

実は頼朝とは兄弟だった?「八田知家」


頼朝の父・源義朝の子供だとされ、頼朝と兄弟だったのでは?という説があります。後先をあまり考えない人物だったようで、朝廷から無断で位階を与えられたことで、頼朝から罵倒されることもあったそうです。

しかし新将軍の頼家には心を寄せており、頼家の叔父にあたる阿野全成が北条時政と結んだ時、知家は有無を言わせず全成を斬っています。時政を敵にしながら、その後も天寿を全うしたことを考えると、かなりの処世術を心得た人物だったようですね。

平家を滅亡させたのち、奥州討伐軍の大将軍になったのが知家でした。また彼の館はたいそう立派だったようで、京都からの使者を迎える接待所として重宝されたといいます。知家の家系は鎌倉・室町時代へと引き継がれ、戦国時代には子孫・小田氏が活躍していました。

敵対した北条氏に滅ぼされる「和田義盛」


侍所の別当を務めたことがあり、軍事・警察の最高責任者となった人物です。頼朝の挙兵から付き従い、その武勇は並み居る敵を恐れさせたとか。また幕府創設後も御家人の重鎮として辣腕を振るいました。

ところが執権・北条義時と敵対し、まんまと挑発に乗った義盛は反乱を起こしてしまいます。建暦3年(1213年)に挙兵するものの、頼りの三浦氏は味方せず北条方に付き、ついに討ち取られてしまいました。

幕府の侍所・別当に就任していた義盛ですが、梶原景時の奸計にはまってしまいます。ある時、景時が「一日だけ別当を代わってほしい」と頼んできました。義盛はたまたま所領へ戻ることがあり、これに応じてしまったのです。ところが景時は別当の座に居座ったまま職を返そうとしません。
景時には武勇や才覚があったため、頼朝もこれを黙認したそうです。のちに景時が滅びると、やはり義盛が再任されたといいます。

北条時政と権勢を争った有力御家人「比企能員」


武蔵国で勢力を誇った有力御家人で、叔母の比企尼は将軍頼家の乳母を務めていました。そのため頼家との関係が深かったといいます。さらに娘を頼家に嫁がせて息子が生まれたことで、北条氏に取って代わる存在だと目されていました。

しかし北条時政によって謀反の疑いを掛けられ、「申し開きするなら我が館へ来い」と挑発を受けてしまいます。
剛毅な能員は単身乗り込みますが、まんまと討ち取られ、一族だけでなく頼家の息子までも討たれてしまいました。

能員は時政に並ぶほどの大物でした。将来の将軍最有力候補が自分の孫だったわけですから、時政もさぞかし焦ったことでしょう。しかし時政にあって能員になかったもの。それは野望と執念でしょうか。
能員はあまりに正直すぎました。策を弄する時政に対抗するには優しすぎたのでしょう。

頼朝が若い頃から付き従った側近「安達盛長」


先ほどご紹介した比企尼の娘婿にあたり、頼朝が流人になった時から付き従う側近でした。頼朝が挙兵した際、味方を募るために各地を駆け回ったといいます。大河ドラマの中でも頼朝の側で常に控えている人物ですね。

合議制が始まってから程なくして亡くなっているため、あまり目立ちませんが、彼の一族はその後も幕府内で重要なポストに就くほど信頼されていたようです。

頼朝が将軍になっても信頼関係は変わらなかったようで、たびたび盛長の館を訪れるなど目を掛けていました。頼朝が亡くなったことで出家し、「蓮西」と号しますが、まるで主君の後を追うように亡くなったそうです。その最期まで頼朝を慕い続けた人生でした。

早くから源氏に付き従った古強者「足立遠元」


頼朝の父・義朝の代から付き従った武蔵国の武士です。幕府創設以来、大江広元のもとで官僚的な役割を果たしました。その交遊関係は幅広く、有力武士だけでなく京都の公家とも交際があったようです。

荒々しい坂東武者らしからぬ文化的素養や官僚としての一面を持っており、合議制の中でも思慮深い人物として知られていたようです。合議制が始まった時点ですでに高齢であり、程なくして亡くなったものと思われます。

遠元の本拠地があった武蔵国では、平家と強く結びついた武士が多かったのですが、誰よりもいち早く参陣したのが遠元です。また周囲の豪族を説得しつつ頼朝軍を迎えたとも。
また東国武士らしからぬ政務の才能があり、かなり文筆に長けた人物だったそうです。

北条氏の罠にかかった最初の人物「梶原景時」


頼朝が挙兵した際、平家方に味方した武士ですが、のちに頼朝に従って数々の武功を挙げています。頼朝の弟・義経の配下となって活躍し、一の谷や壇ノ浦など源平合戦で名を馳せました。

しかし合議制のメンバーとして選ばれ、宿老としての地位を確固たるものにすると強権を振るい始め、多くの御家人から不満の標的とされています。その隙を北条時政に衝かれて失脚し、合議制メンバーの中では最も早く姿を消しました。やがて西国へ落ちていく途中で、北条の息が掛かった者によって暗殺されています。

景時で有名な逸話と言えば、やはり石橋山の戦いでしょうか。敗れて洞穴に隠れた頼朝主従をわざと見逃し、その命を助けたというもの。頼朝はその恩を忘れず、幕府を開いてからは景時を要職に抜擢しました。
しかし頼朝の死後、その存在を危惧した北条時政によって、真っ先に消されてしまうのです。

幕府の創業を陰から支えた功臣「二階堂行政」


出身は公家ですが、政所の執事を務めた実務官僚でした。また幕政に深く関与したと見られ、奉行職だけでなく様々な雑事もこなすなど、公家らしからぬマルチプレーヤーだったようです。

没年は不明ですが、3代将軍実朝の時代には名が見えなくなっていることから、その頃には没したものと考えられます。

行政と頼朝はともに熱田神宮の大宮司家と縁があったことから、頼朝から行政に声を掛けて鎌倉へ呼び寄せたと考えられます。また行政は長年京都で実務キャリアを積んでいたらしく、寺社の差配や財務についても才能があったとか。ちなみに彼の子孫は奥州の戦国大名となりますが、あの伊達政宗によって滅ぼされたそうです。
この13人のメンバーは出自も職責もバラバラで、あまり統一性がないように思われますよね。しかし、いずれも鎌倉幕府創設の重要メンバーであることは確かで、当初は武士政権の安定のために機能していたのでしょう。
しかし一人減り、二人減るなど縮小を重ね、ついに消滅してしまうのです。
とはいえ合議制は3代執権・泰時の頃に「評定衆」として復活を遂げ、執権を中心とした新たなブレーンが出来上がっていくのです。

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