日本史5大悪人!~歴史を彩った悪の華たち~


これまで日本3大悪人として、道鏡・平将門・足利尊氏などが挙げられていましたが、歴史研究が進んだことで評価が変わりつつあります。
ところが日本史をひも解いていくと、とんでもない極悪人たちがいるものです。今回は強烈な個性と欲望に彩られた悪の華たちをご紹介していきましょう。

朝廷を我がものにしようとした平安の悪女「藤原薬子」


平安京への遷都をおこなった桓武天皇に安殿(あて)親王という皇子がいました。そんな皇子が見初めたのが中級貴族だった藤原縄主(ただぬし)と薬子の間に生まれた姫です。やがて姫は将来の妃として御所へ入り、母・薬子もまた宮女として御所に仕えたといいます。

しかし、薬子はあろうことか親王と深い仲となり、それが桓武天皇の知るところとなりました。薬子は御所を追い出されるですが、程なくして天皇が崩御し、親王が新たに平城天皇となるのです。かつての仲を取り戻した二人にとって怖いものはありません。薬子は天皇の権威を嵩に着てやりたい放題。また兄の仲成とともに政治を牛耳り、専横の限りを尽くしたといいます。

平城天皇が譲位して上皇となったのち、薬子はさらなる陰謀を図りました。平城上皇とともに奈良(平城京)へ移って新政権を立ち上げ、京都にいる嵯峨天皇と対立するのです。これを放置できない天皇は仲成を捕らえ、さらに薬子の官位を剥奪しました。

薬子は上皇とともに挙兵するべく東へ向かいますが、そこで待ち構えていたのが坂上田村麻呂です。勝ち目がないとあきらめた上皇は剃髪し、薬子は毒をあおって命を断ったといいます。

これは驚きです。娘の許嫁を奪うなど本来なら許されないところ。それを平気でやってのけてしまうあたり、薬子は本物の悪女だったのでしょう。
ちなみに薬子の夫・縄主ですが、妻がやりたい放題やっている間に、大宰府へ左遷させられています。いわば邪魔者だったのでしょうね。とはいえ「薬子の変」と無関係だったおかげで、のちに中納言まで出世していますね。

万人が恐怖!悪御所と異名を取ったサイコパス将軍「足利義教」


室町幕府第6代将軍となったのが足利義教です。くじ引き将軍としても有名ですが、義教が目指したのは亡き父・義満のような強い将軍像でした。本来の性格も相まってか、臣下や民衆に恐怖を与えることで将軍の権威を高めようとしたのです。

そのためか、義教のやり方はサイコパスそのものでした。ある公家は儀式の最中に「笑った」というだけで「自分を笑ったに違いない!」と難癖を付けられ、所領没収の上蟄居を命じられました。
また自分を諫めた日親という僧を捕らえて拷問にかけ、舌を切り取って灼熱の鍋を頭からかぶせたそうです。日親は鍋が取れずに過ごしたそうで、人々は「鍋かぶり上人」と呼んでいたとか。

些細なことで激怒する義教に世間の人々は恐怖し、彼のことを「悪御所」と呼ぶようになりました。嘉吉元年(1441年)、家臣による暗殺で命を落としたのですが、まさに因果応報としか言いようがありません。

残酷とされた信長ですら優しい一面が垣間見えるのですが、義教に限っては人間性のかけらすらなかったようです。無残な末路を迎えたのも当然と言えば当然。義教が亡くなったことで、さぞかし人々は胸を撫でおろしたことでしょう。
しかし義教が非業の死を遂げたことで幕府の威信は失墜。足利将軍家は徐々に衰退していくのです。

半将軍と呼ばれて怖いものなし!幕政を牛耳った人物「細川政元」


応仁の乱の首謀者・細川勝元を父に持つ人物が細川政元です。よく言えば既成概念に囚われない、悪く言えば変人だったとされ、とにかく古い権威など屁とも思わない性格だったようです。

時の将軍・足利義材が不在だった隙にクーデターを起こし、将軍を挿げ替えてしまうという暴挙に出ました。次の将軍として義澄が就任するのですが、そんな政元ですから、天皇や将軍の権威などまったく軽視しています。義澄が参議に任じられた時、政元はあっさりと「人々が命令に応じない官職など無意味でございましょう」と言ったとか。

さらに後柏原天皇が即位礼を挙げてくれるよう、求めた時にも暴言を述べています。
「実質が伴わない天皇は認められません。別に儀式を挙げなくても私は天皇と認めましょう。だから即位礼など無駄なことです」そう言って費用を出すことはしませんでした。

将軍より力を持つ政元のことを、人々は「半将軍」と呼んだとか。しかし身勝手で空気の読めない男の末路も悲惨でした。家督争いのいざこざもあって家臣によって暗殺されてしまうのです。

現代でも身勝手・傲慢・人の気持ちがわからない方はおられますが、トップに立つ人間がこれでは困ります。
事実、政元が引っ掻きましたおかげで政治は混乱し、幕府は衰退していきました。やがて日本は戦国時代へ突入していくのです。

政敵や邪魔者を次々に抹殺!?戦国一の梟雄「斎藤道三」


「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三ですが、最新の説では親子二代で国盗りしたとされていますね。
「道三梟雄説」はこれまで、軍記物や小説だけの虚構だと考えられてきました。ところが道三が悪逆の限りを尽くしたという史料が残っているのです。

父の跡を継いだ道三は、美濃の名族・長井の姓を賜りました。やがて長井家の当主を殺して乗っ取り、重臣の地位も奪います。
さらに断絶していた斎藤氏の名跡を継ぎ、土岐頼純を娘婿にして勢力を拡大するのですが、頼純すら邪魔になって暗殺。土岐氏に連なる有力者たちを呼び寄せては、毒殺や暗殺を繰り返して成り上っていきました。
結局は守護・土岐頼芸を追放したことで美濃国主になりますが、道三もまた息子に命を奪われるという末路をたどっていますね。

道三の生きざまは、まさに親の腹を食い破るというマムシそのもの。戦国乱世の権化のような存在だったのでしょう。しかし道三のやり方はあまりに強引かつ狡猾でした。
それゆえに美濃国衆たちの支持が得られず、晩年には反発を買う結果となったのです。これも因果応報だと言えそうですね。

英雄のち暴君!?晩節を汚した天下人の行く末とは?「豊臣秀吉」


豊臣秀吉ほど人生前半の評価と、後半の評価が一変する人物はいません。信長に仕えていた頃は懸命に励み、数々の心温まる逸話を残すものの、天下人となって晩年を迎えるにつれ、残酷な暴君の顔を見せるのです。

朝鮮の役という無益な戦争を仕掛け、戦乱が終わったばかりの日本を疲弊させました。さらに甥の秀次が自害した際、残された愛妾や子供たちを根絶やしにし、自分をこれまで支えてきた千利休ですら自害に追い込みました。もし秀次と良好な関係を保っていれば、豊臣政権は後の世も存続できていたかも知れません。

もし由緒ある武家なら、連綿と続いてきた親族や一族が家を支えるわけですが、秀吉が亡くなった時、幼い秀頼を支える身内はほとんどいませんでした。この血縁の薄さこそ豊臣家の弱点だったのです。秀吉は自らの手で豊臣家を滅亡へ追いやったと言えるでしょう。

たしかに秀吉は根っからの武家ではありませんし、それどころか低い身分の出身だったとされています。それゆえ豊臣家を繁栄させたい、存続させたいという気持ちが強すぎたのでしょう。
幼い秀頼に害をなす者、そして邪魔者は消す。秀吉はそんな邪心に突き動かされたのです。これも歴史の大きな闇なのかも知れませんね。

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