なぜ男色がはじまった?


現代日本で大きな話題となっているのがLGBTの問題ですが、皆さんご承知の通り賛否両論ありますよね。
しかし昔の日本では、男性同士の同性愛すなわち「男色」は当たり前の行為として認知されていました。むしろ男色を経験することが出世コースへの早道。なんて時代もあったのです。そこで日本独自の文化ともいえる「男色の歴史」をご紹介していきましょう。

男色は仏教とともに伝来した!?


まず男色はいつから行われるようになったのか?その始まりを見ていきましょう。
実は最古の歴史書とされる「日本書紀」には、親しくしていた相手への殉死という記事がたくさん出てきます。親しいとはつまり「恋しい」に通じ、愛する人を失った悲しみのあまり、後を追ってしまったケースだと言えるでしょう。

また江戸時代の浄瑠璃作者・井原西鶴は「男色大鑑(おおかがみ)」という作品を残していますが、その中で神々の同性愛を赤裸々に表現しました。すなわちイザナギ・イザナミ以前の神はみんな男神だったと主張し、それぞれに男色を楽しんでいたのだとか。

さて本格的に男色文化が起こるのは、仏教伝来がきっかけだと言われています。厳しい仏教の戒律では、欲にまみれることはタブーとされ、もちろん女性との交わりも禁忌とされていたようです。これには信心深い貴族たちも感化される者が多く、自ら進んで女性との関係を断ったのだとか。
最古の和歌集である「万葉集」にも、こんなふうに恋焦がれる男性へ向けた歌が残されています。

満誓(まんせい)
「会いたい君に残されて、朝夕になれば心寂しく思い続けるのだろうなあ」
大伴池主(おおともの いけぬし)
「桜の花は今が盛りと言うけれど、君といなきゃ私はとても寂しいよ」

こいやあ、男色の始まりから振り切っておりますなあ。まさか神代(かみよ)の時代から男色が盛んだったと知りませんでした。
ちなみに「愛」や「恋」という言葉は、もともと「恋愛」を指すものではありません。明治時代になってから「LOVE」の日本語訳として用いられたものです。それ以前は「色」と表現していたらしく、「男色」「好色」といった言葉があるように、これが恋愛感情を示すものだったわけですね。

出世するには、男色は経験しておくべきだった!?


さて奈良~平安時代にかけて、仏教界では男色を正当化する動きが見られます。それが「僧」と「稚児」という関係でした。稚児とは、寺院でお坊さんの身の回りの世話などをしつつ、仏道を学ぶ少年のことです。

もともと仏教では「生身の人間と交わってはいけない」とされていましたが、僧たちはうまく抜け道を見つけました。それが「稚児灌頂(かんじょう)」と呼ばれる儀式です。
灌頂とは本来、悟りを開くための洗礼という意味なのですが、稚児に灌頂の儀式を施すことで、人間ではない崇高な存在と決めつけたのです。
「人間じゃないなら、別に交わっても問題ないよね!」という感じで、僧たちは稚児との交わりを正当化しました。

その影響は皇室や貴族社会にも及んできます。「院」とは天皇を退いた上皇や法皇を指すのですが、見目麗しい美少年を稚児として寵愛していました。やがて稚児が成長すると自らの近臣として重く用いたといいます。
ちなみに白河院に愛された藤原顕隆(ふじわらの あきたか)という人物は、中納言となって大きな権勢を振るいました。人々は彼のことを「夜の関白」と揶揄したそうです。

また有名な藤原道長の息子である藤原頼長も、おおっぴらに男色を好んでいたらしく、彼の日記「台記」には赤裸々な男性遍歴が書かれています。そんなふうに貴族社会でも男色が一般化していたんですね。

クソ坊主、いやいや僧も一人の人間ですから、煩悩や欲にまみれることは仕方のないこと。禁じられてもどうにか抜け道を探そうとするのが、人間の性(さが)でございますね。
しかし戒めを破ることは仏道の堕落にも繋がります。信長様が堕落した坊主どもを懲らしめようとしたのも、何だかわかるような気がしますね。

男色を極めることが尚武の道だった戦国時代


やがて中世になると、武家社会にまで男色文化が浸透してきます。あの源義経も鞍馬寺へ預けられた時、稚児として仕えたそうで、灌頂を受けた稚児は「丸」と名付けられるのが習わしですから、義経の幼名「牛若丸」もそこから来ています。鞍馬寺の僧たちと、あれやこれやと交わっていたのでしょう。

また室町時代になると、3代将軍・足利義満は世阿弥を寵愛してパトロンとなりました。のちに世阿弥は男色をテーマにした猿楽を大成させて、日本の伝統文化に大きな影響を与えています。

しかし武士の間でもっとも男色が流行したのは戦国時代でしょうか。大名を頂点とする家臣団は男性同士の結束が大事ですし、男色というのは主君への服従、そして絆を築くという精神的なツールとなったのです。
また女っ気のない戦場では、男性を性的対象として見ることは珍しくありません。上は戦国大名から下は足軽に至るまで、男色は当たり前の光景としてあったようです。

仏教文化として続いてきた稚児灌頂という儀式も、形を変えて武家社会に伝わっています。それが「主君」と「小姓」の関係でした。灌頂こそしないものの、小姓は主君の身の回りの世話をしつつ夜のお相手もします。
主君は精神的な結びつきを小姓に求め、逆に小姓は主君の寵愛に預かれるでしょう。また出世できる将来への道も約束されていました。

小姓は主君と日夜行動をともにすることで、その考え方や方針を深く理解できますし、戦略や政治などを直に学び取れるわけです。しかしこればかりは誰でもなれるわけではありません。麗しいルックスと明晰な頭脳が必要とされ、まさに憧れの立場だったのです。

戦国時代の男色文化を目にした宣教師ルイス・フロイスは、「許すまじ罪悪」として非難したそうです。しかし男色は日本の伝統文化である以上、外国人が文句を言う筋合いはありません。その後も男色はますます盛んになっていくのです。

ちなみに主君と小姓の男色関係で有名な例としては、「織田信長と森蘭丸」、「徳川家康と井伊直政」、「武田信玄と春日虎綱」などが挙げられますね。いずれの小姓も重く用いられたわけですが、もし蘭丸が本能寺で討ち死にしなければ、きっといっぱしの大名になっていたことでしょう。

民衆レベルにまで浸透!?江戸時代の男色文化


さて江戸時代に入っても男色は盛んでした。この頃から「衆道」と呼ばれるのですが、武士道の精神を加えることで、より同性同士の絆を深めようとする機運が高まります。
すなわち「二君に仕えず=主君への恋愛感情」といった考えで、もし主君が亡くなれば、寵愛を受けていた家臣は悲しみのあまり殉死するといった事例が続くようになりました。

また3代将軍・徳川家光は男色にはまり過ぎて女性に興味を示さず、とうとう春日局は江戸城に大奥を作り上げました。すなわち「女性はよりどりみどり」といった環境にしたわけですね。
それでも興味を示さない家光に対し、ついに最終手段として、男装させた女性を側に侍らせたそうです。

いっぽう男色文化は民衆レベルにまで浸透していきました。春を売る男娼を「陰間」と呼んだそうですが、陰間茶屋は待ちの行列ができるほど大繁盛していたとも。江戸や京・大阪といった大都市では、そんな茶屋が数えきれないほどあったそうです。

男色はやがて江戸時代を代表する文化にまで発展していきます。井原西鶴や近松門左衛門といった作家がもてはやされ、男色を題材にした作品が生み出されました。
特に「好色一代男」はその最たるもので、主人公の世之介は、54年の生涯で女性3,742人、男性725人と寝たことになっています。
男色を愛する町人たちは、兄と弟分という契りを結ぶことで、肉体的そして精神的な繋がりを求めていたのかも知れませんね。

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