通説が覆る!?日本国民の多くが間違っている真実の歴史とは?


歴史はたびたび覆されるもの。勝者によって真実が捏造されたり、後世の創作だったりしたことが、新たな歴史研究によって白日の下へ晒されるのです。
今回は多くの日本国民が真実だと思っていたことを逆転してみたいと思います。本当の歴史とは何なのか?さまざまな観点から検証していきましょう。

聖徳太子は暗殺されていた!?


まずご紹介するのは、天皇を中心とした政治改革を進めた聖徳太子です。通説では天然痘によって亡くなったとされていますが、その死には不可解な点が多いと言えます。
太子とともに政治をおこなっていたのが蘇我馬子という人物ですが、政治が天皇中心になれば、馬子たち豪族の権利は制限されてしまいます。そこで馬子は邪魔者を排除しようと考えました。

まず犠牲となったのが崇峻天皇です。天皇はかねてから馬子を目の敵にしていたようで、危機感を覚えた馬子は部下に命じて天皇を殺害しました。さらに蘇我氏寄りである推古天皇を即位させるのです。
いっぽう太子の存在も危険視していました。馬子は仏教を篤く崇拝していましたが、太子は古来からの神道も重視していたため、考え方が相いれなかったのです。

江戸時代に現在の大阪府南部で発見された絵巻物には、聖徳太子暗殺の生々しいシーンが描かれています。
それによると、馬子は太子を毒殺し、残された妻子ら25人も命を奪われました。実際に太子とその妻が亡くなったのは一日違いという不自然さですから、やはり暗殺されたものと思われます。

太子亡きあと、馬子は政治の実権を握って蘇我氏中心の政権を作り、その後20年にわたって独裁していきました。邪魔者だった崇峻天皇や聖徳太子を消した蘇我氏ですが、乙巳の変によって蘇我入鹿が暗殺されたことにより、急速に没落するのです。

古代にもドロドロした政治闘争があったわけですね。しかも崇峻天皇は126代続く天皇の中で、暗殺で命を落とした唯一の天皇でした。律令制の基礎を作り、いち早く優れた大陸文化を取り入れた聖徳太子も、そんな政争の犠牲となった一人だったのです。これも大きな歴史の闇ではないでしょうか。

信長の比叡山焼き討ちは真っ赤なウソだった!?


比叡山延暦寺が織田信長によって焼き討ちされたのは元亀(げんき)2年(1571年)のこと。延暦寺の建物はことごとく焼き払われ、女子供まで命を奪われました。その数は3千人にのぼったとも。これを伝え聞いた山科言継は「仏法破滅」と日記に記し、朝廷の女官たちも「本当に気の毒で筆に尽くしがたい」と書いています。

ところが不思議なことに、焼き討ちされたという証拠がほとんどないのです。実は大講堂の改築工事や、ドライブウェイの建設工事に伴い、現地の発掘調査が行われました。
すると「根本中堂と大講堂では焼土層が確認できるものの、これは焼き討ち以前に起こったものが大半だった」と結論付けられました。
すなわち信長による比叡山焼き討ちは事実ではなかったことを意味します。

実はこの時期、寺院としての延暦寺は衰退期にあって、多くの僧は麓の坂本や堅田で暮らしていました。また権益を独占したことで経済的に豊かとなり、山にいなくても裕福な生活を送っていたのです。
信長としても抜け殻になった比叡山へ火を放つ理由がありません。おそらく根本中堂など中心的な建物に火を放つ程度だったのでしょう。

単に寺の一部を焼くことで、信長は近隣に武威を示そうとしたわけですね。まだ信長は上洛してから3年しか経っていませんし、ある程度は世間体も気にしていたはず。全山焼き討ちなど得策ではなかったことでしょう。
また焼き討ちを記録しているのは、京都の公家や女官たちです。もちろん自分の目で確かめたわけではありませんから、おそらく大げさに日記へ記したのでしょう。

この比叡山焼き討ちによって信長の暴虐ぶりが明らかになったとされますが、蓋を開けてみれば信長も普通の人間だった。ということになりますね。
織田包囲網が出来上がりつつあった時期ですから、信長もあえて反発を招く真似はしたくなかったはず。とにかく「延暦寺を懲らしめてやった」という既成事実だけがほしかったのでしょう。

卑弥呼が君臨した国は「邪馬台国」という名ではなかった?


女王・卑弥呼が統治した国「邪馬台国」。現在でも実在説を含めて何かと話題の多い国ですよね。さて卑弥呼や邪馬台国の名称が登場する唯一の記録といえば、中国で書かれた「魏志倭人伝」です。当時、大陸では倭国の人々
を蛮族と蔑み、あえて動物の文字や邪悪な文字を使うのが通例でした。

例えば「卑弥呼」ですと「卑しい」という意味に通じますし、「邪馬台国」にしても「邪(よこしま)な馬」となります。「東の蛮族など汚らわしい」という上から目線だったわけですね。

ところが「台国っていったい何?」ということに気付くでしょう。実は倭人伝に書かれているのは本来、「邪馬壹国(やまいちこく)」という国名でした。ところが他の歴史書では「邪馬臺国(やまたいこく)」と記すものが現れます。「どっちが正しいのか?」そんな議論が江戸時代になって広がりました。

当時は天皇を中心とする皇国史観が盛んな時代ですから、学者たちは「邪馬臺国はやっぱり大和(やまと)に通じるのだ!」と勝手に連想。まともな検証もないままヤマタイ=ヤマトという図式を作り上げてしまったのです。
それが「邪馬台国」と呼ばれるゆえんとなりました。

しかし「臺」という字は、中国の王朝またはそれに準ずる王宮にしか使われない至高の文字ですから、「卑」や「邪」といった野蛮な言葉で呼ばれる国相手に用いられるわけもありません。
たしかに議論が分かれるところですが、歴史研究が進んでいくことで「実は邪馬壹国(やまいちこく)という国名だった!」なんて結論が出るかも知れませんね。

日本に紙もペンもない時代ですから、もちろん記録など残っているはずもありません。しかし九州説か?畿内説か?といった議論も含めて、古代ロマンに思いを馳せるのも夢があっていいですよね。
実はアマテラスのモデルは卑弥呼だった!なんて説もあるそうですから、また機会があれば検証してみたいと思います。

暗君・徳川綱吉は作られたイメージだった!?


「生類憐みの令」を出して人間より犬を大事にし、人々から恨みを買ったという将軍・徳川綱吉ですが、果たして通説にあるような暗君だったのでしょうか?

実は「生類憐れみの令」という法令は、世界初の動物愛護法とされるもの。社会不安で荒んだ民衆の心を和らげる狙いがあったとされています。また動物を大事にすると同時に、貧しい人々や捨て子といった社会的弱者の救済に取り組んだとも。
野良犬を収容して隔離するのは疫病予防に繋がりますから、いわば一石二鳥だったわけですね。

そう考えると、綱吉は名君と呼んでも良いはずですが、死後、その名を貶めた人物がいます。それが綱吉の次に将軍となった徳川家宣でした。二人はもともと将軍候補としてライバル関係にあったのですが、ようやく将軍になれた家宣は亡き綱吉の政治を悪政だと糾弾しました。もちろん自分の政治を正当化するためです。こうして綱吉に暗君のレッテルが貼られてしまったということですね。

最近では徳川綱吉に対する歴史研究も進んでいるようで、「史上最高の愛犬家」「動物保護活動に取り組んだ将軍」として評価はうなぎ上りだそうです。
綱吉は儒学を重視したこともあり、日本人がもっとも大事にすべきは「弱い者を助ける」という道徳観だと考えたのでしょう。

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