ガチで本当ぽいけど、実はウソだった歴史


世の中には「通説」という言葉があります。歴史の真実だとされ、誰もが本当にあったと信じる常識のことですね。ところが歴史とは面白いもの。裏を返せば誰かが創作した作り話だったり、実際にはありえない話だったりします。
今回はガチで本当ぽいけど、実は真っ赤なウソだった逸話の数々をご紹介していきましょう。

バカ殿の汁かけご飯


約100年にわたって関東を席巻した戦国大名・北条氏ですが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉による征伐を受けて滅亡しました。この時、北条氏の実権を握っていた人物が北条氏政とされています。
世間の評価を見ても、「家を滅ぼした暗愚な主君」「時勢を見極められなかったバカ殿」などと散々ですが、そんな氏政の人物像を表す逸話が伝わっています。

父・氏康は「相模の獅子」の異名を取るほど優れた名将だったのですが、久しぶりに若い氏政と食事をしていた時のこと…
氏政はご飯に汁をかけつつ食べていたのですが、どうも汁の量が足りなかったようです。一度箸を置くと、もう一度ご飯に汁を掛けました。そして何食わぬ顔で食べ進めます。しかし、その様子を見ていた氏康は表情を曇らせました。

あとになって家臣が「どうなさいました?」と聞くと、氏康はため息交じりにこう言ったそうです。
「毎日食べているくせに汁の量もわからぬか。氏政に国や家臣を推し量ること到底できまい。北条の行く末が嘆かわしいことじゃ」

国政を担うには経済や物流・人の管理など、あらゆる計算が必要となります。自分が食べる食事すら計算できないのに、どうして国主になれようか。と嘆いたわけですね。そして氏康の危惧した通り、北条氏は氏政の代で滅亡したのです。

これは本当の話のように聞こえますが、実は真っ赤なウソです。北条氏の最大版図を築いたのは氏政の功績ですし、国政が安定した裏には氏政の優れた政治手腕がありました。つまり暗君どころか名君だったというのが真相のようです。

ではいったい誰がそんな作り話を広めたのでしょう?実はこの逸話、「甲陽軍鑑」に出てくるお話なのです。
甲陽軍鑑といえば武田重臣・春日虎綱の言葉を元に作られたとされていますが、折しも北条氏と武田氏が反目し合っていた時期でした。氏政の評価を貶めるために、わざとそのように書かせたのではないでしょうか。
こうして「氏政バカ殿説」が世に広まってしまったというわけです。

義経の八艘飛びは現実には不可能だった!?


源平合戦のクライマックスとなった壇ノ浦の戦いですが、互いに軍船を繰り出しての海戦となりました。この時、源氏方の総大将となったのが源義経です。

さて戦いもたけなわになった頃、豪勇で知られた平教経(のりつね)が義経の前に現れました。「最後に敵の大将を道連れにしてやろう」とばかりに組み付き、海へ飛び込もうとしたのです。
ところが義経は驚くべき跳躍力を発揮し、ひらりと体をかわすや隣の船へ飛び移りました。なおも教経が挑みかかると、またしても別の船へ飛び乗り、合わせて八艘の軍船へ次々に乗り移っていきます。
その身軽さは、かつて弁慶を相手にした五条大橋の場面を思い起こさせるもの。これには敵味方が絶賛したといいます。

義経の八艘飛びは、壇ノ浦の戦いでもっとも象徴的な場面となっています。かつて鞍馬寺の大天狗を相手に修行した義経だったからこそ、人間離れした身体能力を発揮できたのでしょう。

しかし!この逸話も真っ赤なウソなのです。当時着用していた大鎧の重量は8貫目だとされますから、現代の数値に直せば30キロほどでしょうか。さらに太刀だけでなく、矢を入れる靫(うつぼ)なども携行していますから、その重さは相当なものでしょう。

また義経の身長は147センチほどと伝わっており、完全武装していればマトモに動くことすらできません。もし誤って海へ落ちてしまえば、それこそ浮かび上がることは不可能です。ましてや隣の船に乗り移るなど、どんな身軽な人間でも無理ではないでしょうか。

もう一つ、そもそも敵である平教経は壇ノ浦の戦いには参加していません。すでに一の谷の戦いで討ち死にしていますから、いない人間が登場するあたり、やはり創作の域を出ないのです。

「火牛(かぎゅう)の計」は中国故事の丸パクリ!?


明応4年(1495年)、相模・小田原城奪取を狙う伊勢宗瑞(北条早雲とも)は、城主・大森藤頼と仲良くなった頃を見計らい、藤頼にあるお願いをしました。
「鹿狩りをしたいので、大森殿の領内に勢子を入れさせてほしい」と。
藤頼はもちろん疑うことなく快諾しました。

さて、宗瑞は屈強な部下たちを勢子に仕立て上げ、さらに1千頭に及ぶ牛の角に松明を灯して突っ込ませます。数万の敵がやって来たと勘違いした藤頼は逃亡し、宗瑞は難なく城を手中にしました。こうして小田原城は北条氏100年の本拠地となったのです。

歴史上の逸話としてあまりにも有名な「火牛の計」ですが、この話も偽りだとされています。そもそも牛は臆病な動物で、火を近づけただけで動けなくなるか混乱してしまいます。ましてや一斉に突進するなど、猪ではあるまいし現実的ではないでしょう。また「火牛の計」は中国の戦国時代、斉の将軍・田単(でんたん)が考え出したもの。江戸時代になって、中国の故事を取り入れつつ、ド派手な場面として面白おかしく創作されたと考えられます。
実際の小田原城の戦いはもっと地味だったらしく、宗瑞が力攻めで城を奪い取ったに過ぎないそうです。

武田騎馬隊ではなく、武田徒歩隊だった!?


「疾(はや)きこと風のごとく」と謳われた武田騎馬隊は、まさしく最強の称号に相応しい精鋭部隊でした。向かうところ敵なし、その卓越した統率力と団結心をもって並み居る敵とぶつかり、数えきれないほどの勝利を挙げています。
また山県昌景率いる赤備えは、敵にとって畏怖の対象でした。徳川家康などは赤備えの悪夢を見て毎夜うなされたといいますし、その真っ赤な軍装は敵に恐怖を与えるのに十分だったそうです。

ところが天正3年(1575年)に起こった長篠の戦いにおいて、武田騎馬隊は大いに苦戦しました。騎馬の進撃は馬房柵に阻まれ、敵陣へ突入できないまま次々に鉄砲の餌食となったのです。

歴史ファンの夢を壊すようで申し訳ないのですが、実は武田軍の編成の中に「騎馬隊」は存在しません。ほとんどが槍や弓を手にした兵たちで構成され、馬に乗った者はほんの1割に過ぎないのです。
しかも馬に乗れるのは一定以上の身分だけに限られますから、これでは武田騎馬隊ではなくて、武田徒歩隊と言っても差し支えないでしょう。また騎乗したままで戦うことは非常に難しいことがわかっています。馬上で槍を繰り出す場合ですと、まず踏ん張りが利きないうえに短い槍しか使い物になりません。敵の長槍に対抗できないのです。
では太刀を使う場合はどうか?これも短すぎて話になりません。戦場での主流はあくまで槍ですから、地上に降りて戦う方が有利に決まっているのです。ましてや馬で戦場へ乗り込むなど自殺行為でした。真っ先に馬が狙われるのは当たり前で、脚さえ薙いでしまえば後は簡単です。落馬したところを討ち取られてしまうからです。

では、いったい武田軍はどのように戦っていたのでしょうか?実は戦場の手前で馬を降り、そのまま歩兵として合戦に加わっていました。長篠の戦いにしても、徒歩で川を渡って敵陣へ攻め掛かっていたようです。
馬は貴重なものですから、戦場で無駄死させることは許されません。あくまで移動手段として用いていたことがわかりますね。そういった意味では、戦場を疾駆する騎馬隊の姿というのは真っ赤なウソに過ぎないのです。

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