目を背けたくなる飢餓地獄!兵糧攻めとは


戦国乱世の合戦といえば華々しい印象があるもの。ところが戦場はそんな甘いものではありません。時として目を背けたくなるような悲惨な光景が見受けられました。その最たるものが兵糧攻めです。敵に囲まれた城の中で食糧が尽きた時、人々はどんな地獄を味わったのでしょうか?そんな実例を交えつつご紹介してまいりましょう。

兵糧攻めとは?なぜ悲惨な状況になったのか?


戦国時代、戦いのほとんどは城の奪い合いから起こっています。姉川・長篠・厳島などなど、城をめぐる合戦は数えきれないほどありました。城は地域支配の拠点ですから、そこを奪えば敵の体力を削ることができますし、いっぽう守る側は奪われまいと必死で抵抗したことでしょう。

もし城を敵に囲まれた場合、助けてくれる援軍の存在が不可欠となります。援軍がやって来るまで城を持ちこたえ、決して奪われないことが城兵に与えられた役目でした。
ところが頼みの援軍が来てくれなかったら?次第に城内の兵糧は底を付き、兵たちは飢えるしかありません。

やがて餓死者がどんどん増え、城はまさしく飢餓地獄の様相を呈するのです。

兵糧攻めが悲惨な飢餓地獄を招いた要因。その理由はもう一つあります。城は地域支配の要ですから、城の周囲には町や村などが広がっていました。ところが敵が攻めてきた時、領民たちが乱暴狼藉される恐れがあります。それを防ぐため、彼らを城へ収容することが当たり前でした。

これを諸籠り(もろごもり)といいますが、領民を城へ入れた結果、ただでさえ少ない兵糧の減りが早くなってしまうのです。こうして多くの領民までが飢えてしまい、城内は地獄の様相を呈したのだとか。
いったいどんな兵糧攻めがあったのか?次に実例を紹介していきましょう。

飢餓で苦しんだあげく、玉砕を選んだ城兵たち
「高天神城の戦い」


織田・徳川と武田が熾烈な争いを演じていた頃、遠江にある高天神城が戦いの焦点となっていました。信玄の跡を継いだ武田勝頼は高天神城を奪い取り、ここを攻撃の起点としたのです。ところが天正3年(1575年)の長篠の戦いで勝頼が惨敗を喫すると、徳川家康は反撃の狼煙を上げるべく、高天神城を奪い返そうとしました。

いっぽう城は要害堅固で知られており、武田方の岡部元信がしっかり守っています。ここで家康は厳重に城を包囲し、敵の糧道を断ち切った上で兵糧攻めに持ち込みました。
周囲には付城(つけじろ)をいくつも築き、さらに高天神城の周りを鹿垣(ししがき)で囲います。もちろん城兵の脱出を防ぐためでした。

やがて包囲すること半年、ついに城内の兵糧は底を付き、餓死者が出るという有様となります。勝頼からの援軍はいっこうに現れず、城内から降伏を申し出るも拒否されました。
絶望した岡部元信は、城から討って出て血路を開くことを決心します。そして夜陰に紛れて徳川の陣へ突撃した岡部勢は、688人という戦死者を出して玉砕してしまいました。

最後に壮烈な玉砕を遂げた高天神城ですが、これは単なる落城ではありません。包囲される中、岡部は幾度も勝頼へ救援要請を発したのですが、ついに勝頼が動くことはなかったのです。
当時の勝頼は、織田と和睦を模索していたこともあり、容易に敵を刺激するべきではないと考えていました。

ところが家臣たちは違います。「勝頼様は信頼する部下を見捨てたのだ」とすっかり主君への信頼をなくし、勝頼の信望は地に落ちる結果となりました。
翌年、織田・徳川による甲州攻めが始まりますが、もはや求心力を失った勝頼を支える者はほとんどいなかったといいます。

城内でまさかのクラスターが発生!?
「七尾城の戦い」


織田を敵とした上杉謙信にとって、隣国・越中は何としても確保しておきたい地域でした。ところが越中の北にある能登では、畠山氏の重臣・長続連(ちょう つぐつら)が中心となって織田と結び、上杉との対決姿勢を鮮明にしたのです。

謙信は天正4年(1576年)、大軍を率いて能登の七尾城を囲みますが、関東の北条氏が動き出したこともあって攻略を断念。周囲の支城を落とすに留めました。
いっぽう畠山氏も反撃を開始し、奪われた城を取り返してみせるのです。さすがに放置できなかった謙信は、ついに本気で七尾城を潰すことを目論みます。翌年、再び能登へ侵攻して城を厳重に包囲しました。

七尾城では多くの領民たちを収容して徹底抗戦の構えに出ますが、一ヶ月もすると兵糧の欠乏が目立ってきます。飢えに苦しむ中、さらに城を襲ったのが疫病でした。あまりに多くの人間を城に入れたことで排泄物の処理が追い付かず、ついにクラスターが発生したのです。餓死者と病死者で城内は地獄の様相を呈し、兵たちの士気も下がっていきました。

やがて裏切り者の手引きで、指揮を執っていた続連が暗殺されたことにより、堅城を謳われた七尾城は陥落したのです。

この時、七尾城の危機を救うべく柴田勝家率いる織田軍が能登へ向かっていました。ところが落城を知った勝家が撤退しようとするところ、織田軍の接近を知った謙信によって奇襲を受けてしまうのです。この手取川の戦いで織田軍は惨敗を喫し、多くの損害を出しつつ敗走していったとか。

「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長」
という落首でも有名な戦いですが、最近になって合戦はなかったのではないか?と囁かれています。いまだ諸説が混在していますが、今後の歴史研究に期待したいところですね。

まさに地獄絵図!城兵や領民を襲った飢餓地獄とは?
「鳥取城の戦い」


羽柴秀吉は誰もが認める「城攻め名人」とされていますが、あっと驚く作戦を用いたり、なるべく味方が損害を出さない戦いをするなど、とにかく合理的な考えの持ち主でした。しかし秀吉のもっとも恐ろしいところは、「勝つためなら何でもやる」ことでしょう。

播磨の三木城攻めでは2年にわたって城を包囲し、餓死者が出るほど敵を追い詰めていますが、天正8年(1580年)に攻めた鳥取城などは、さらに輪をかけて酷いものでした。

さて鳥取城を守るべく入城してきたのが毛利方の吉川経家という武将です。ところが城中の米が不足していることに気付きました。「このままではまずい」そう考えた経家は、慌てて米の買い付けを命じたといいます。
しかし、城下はおろか近隣の国々を探し回っても、米が見当たりません。それもそのはず、秀吉が先手を打って米を高値で買い取らせていたのです。

やがて羽柴軍が鳥取城へ迫ってきました。秀吉の指示で近隣住民たちを城へ追い込み、さらに付城を築いて完全に鳥取城を包囲したのです。
城内の兵糧はただでさえ乏しく、そこへ2千人以上の住民が城に籠ったことで、みるみる餓える者が増えていきました。飢餓で苦しんだ者が脱出を試みますが、秀吉は城の麓に厳重な柵を築かせており、城内の者を一歩も外へ出しません。もし柵に取り付く者がいれば、たちまち鉄砲で狙い撃ったのです。

籠城してから2ヶ月余り、兵糧が底を付いた城内では凄惨な光景となっていました。牛馬どころか壁土や雑草など食べ尽くし、至るところに餓死者が転がっています。
また恐るべき人肉食も発生していました。鉄砲で撃たれた者が倒れると、まだ息があるのに人々が群がって肉を切り分け、それを食べたそうです。特に脳みそが詰まっている頭が美味だったらしく、奪い合いになったとか。

やがて餓死した人の肉を食べるのは当たり前の光景となり、子は親を食べ、弟は兄の肉を食べるという地獄の有様となりました。
この目を背けたくなる光景に、ついに城将・吉川経家は降伏を決意。自らの命と引き換えに城を開いたのです。

いくら戦国のならいとはいえ、こうまでして戦う必要があったのでしょうか?武士同士が戦うのは勝手ですが、罪のない民衆が巻き込まれるのは、やはりいい気持がしないものですね。

さて城を開いたことで、人々は無事に助け出されたわけですが、飢えた人々は羽柴軍の炊き出しに群がったそうです。ところが急に食べ過ぎたせいで腹痛を起こし、そのまま亡くなる人が相次いだとか。
急に栄養を摂取したことで代謝が支障をきたし、心不全や呼吸不全を起こしてしまったわけですね。現代の医学では、一杯のお粥を丸一日かけてゆっくり食べれば助かるそうです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です