信長を裏切った武将5人


とにかく敵が多かったとされる織田信長ですが、外敵に苦しめられただけではありません。内部の敵に手を焼くことも多かったようです。信長の苛烈で冷淡な性格は、家臣や盟友を疑心暗鬼にさせ、思わぬ裏切りが相次ぐことになりました。
今回は信長を裏切った5人の人物たちを紹介していきましょう。

血を分けた兄弟、悲しみの愛憎劇「織田信行」


信長には多くの兄弟がいたことが知られています。すぐ下の弟にあたるのが信行ですが、同じく土田(どた)御前を母に持っていました。信勝という名でも知られていますね。
しかし仲が良かったのか?といえば決してそうではありません。父・信秀が亡くなり信長が跡を継ぐと、兄弟の争いは表面化していくのです。

末森城を与えられた信行には林秀貞・柴田勝家という家老が付くのですが、弘治2年(1556年)になると打倒信長を目指して反旗を翻しました。信長の後ろ盾だった斎藤道三の死を大きなチャンスと踏んだわけですね。
さて稲生の戦いで信長は大いに奮起し、信行の軍勢を打ち破ります。敗れた信行は、土田御前や勝家を伴って侘びを入れてきたこともあり、さしもの信長も一度は許しました。

しかし、どこまでも相容れぬ兄弟だったようです。2年後、信行は岩倉城主・織田信安と組んで、またしても信長に謀反を起こそうとしたのです。さすがに勝家もかばい切れず、信行の元を離反して信長へ企みを知らせたとも。
信長はもはや捨て置けません。病と称して信行を呼び寄せ、清州城においてその命を奪いました。尾張統一のためとはいえ、実の弟を殺すのは信長も断腸の思いだったことでしょう。

悲しい兄弟の愛憎劇だったわけですが、なぜ同じ血を分けた同士でありながら、ここまで反目し合ったのでしょう?その原因は父・信秀にあったのです。
信秀はかねてから信行を可愛がり、手元に置いていました。周囲の家臣たちも「うつけの信長さまより、信行さまに家督を譲られるのでは?」と噂していたとも。

信行も父の仕事を手伝いながら、「あわよくば私が…」という思いを抱いていたのでしょう。しかし信行の扱いをどうするのか?明確に決めないまま信秀が亡くなってしまいます。やがて信行支持派の家臣たちが持ち上げ、信行もすっかりその気になったというのが真相ではないでしょうか。

信頼していた義理の弟による裏切り!「浅井長政」


信長が妹・お市の方を娶せてまで同盟を結んだのが、北近江の浅井長政です。岐阜から京都へ向かうルート上に浅井領があり、また長政の能力を高く評価したからでしょう。
ところが蜜月の関係も長くはありませんでした。中央の覇権を握った信長が、長政に無断で越前へ攻め入ったからです。越前・朝倉氏と浅井氏は盟友関係にあったため、長政はこれを背反行為だと糾弾しました。そして織田軍の背後を衝くべく軍勢を北へ向けるのです。

驚いたのは信長でした。まさか義理の弟が裏切るとは思っておらず、辛くも窮地を脱するものの、ここから3年にわたる苦闘が始まります。元亀元年(1570年)に姉川で激戦を繰り広げ、続く志賀の陣では京都近郊にまで浅井・朝倉軍が攻め込んできました。

しかし反信長同盟の主役である武田信玄の死を契機に、いよいよ信長は総反撃に乗り出します。天正元年(1573年)、まず朝倉義景を追い詰めて自害させると、返す刀で長政の小谷(おだに)城を攻め落とし、浅井氏を滅亡させました。こうして信長は苦難を乗り越えながら、天下布武へと突き進んでいくのです。

最新の歴史研究によれば、浅井氏の権力基盤は非常に弱かったらしく、戦国大名としては半人前だったそうです。何せ浅井氏は下剋上でのし上がった家ですから、旧主・京極氏が復権を目指して挑んできます。そのため南近江の六角氏を頼らざるを得ない状況となりました。

長政が家督を継ぐと、いよいよ六角氏の支配から脱却を目指します。ところが浅井氏単独では心もとないため、次に頼ったのが朝倉氏でした。長政は朝倉の本拠・一乗谷にわざわざ自分の屋敷を造り、朝倉義景に御機嫌伺いをしたほど。朝倉氏が持つ経済力と軍事力をアテにしたのでしょう。

そんな長政に最大の支援者が現れます。それが信長でした。しかも絶世の美女・お市をくれるというのですから、これ以上の好条件はありません。長政はすぐに飛びつき、信長の良き同盟者に収まるのです。

ところが、信長が越前へ攻め込んだという情報が入りました。長政とすれば義兄の信長に付きたかったのかも知れません。そこへ口を挟んできたのが父・久政でした。旧来から続く朝倉との関係を重視し、信長から離反するよう求めたのでしょう。こうして選択の誤りによって滅亡を遂げてしまうのです。

信長を裏切った戦国の爆弾男「松永久秀」


戦国時代、最初に天下人となったのは三好長慶という人物です。信長が上洛するはるか以前に畿内を掌握し、時の政権を牛耳っていました。また長慶の右筆だった松永久秀は、優れた才能でどんどん出世し、政治を動かすほどの存在となります。

ところが長慶の死後、三好政権は急速に衰退していき、やがて信長の上洛を迎えます。久秀はいち早く信長に従属して傘下に入り、信長もまた久秀の能力や知見を利用するべく重用しました。
こうして忠実に仕える久秀ですが、なぜか二度までも謀反に踏み切っています。一度目は城や茶器を差し出して許されますが、二度目の謀反では久秀にも意地がありました。天正5年(1577年)、信貴山(しぎさん)城に籠城すると、降伏勧告を一切受け付けずに徹底抗戦を崩さず、最後は自らが築いた壮麗な城と運命を供にしたのです。

火薬を仕込み、名物・平蜘蛛とともに爆死したとされますが、これは後世の軍記物によるもの。おそらくそこまで派手な最期ではなかったでしょう。

松永久秀が二度も裏切った理由。それは野望や野心のためではありません。実はある人物の存在が気に入らないからでした。その人物こそ大和国で勢力を持っていた筒井順慶です。
かつて三好政権が盤石だった頃から、久秀と筒井氏は不倶戴天の敵同士でした。大和で飽くなき抗争を繰り広げ、ついに久秀が勝利を掴もうとします。

ところが予想もしない事態となりました。なんと順慶が信長へ接近し、まんまとその傘下に収まったからです。順慶は優遇され、やがて久秀に代わる新しい大和の国主へ抜擢されました。自尊心の高い久秀にとって、それは我慢できないことだったでしょう。
そして信長へ抗議の意味も込め、あわよくば逆転勝利を狙ったのです。

謀反を起こしながら、身内や家臣を見殺しに!「荒木村重」


信長は能力さえあれば、あまり出自にこだわらない主君だったようですが、荒木村重もまた大いに抜擢された人物でした。摂津の出身ながら37万石の大名として君臨しています。

ところが天正6年(1578年)のこと、突如として村重は謀反に踏み切ってしまうのです。一説には、頭角を現してきた羽柴秀吉や明智光秀の台頭に危機感を感じたからだとも。
ともあれ村重には勝算はありました。大坂本願寺や毛利の支援をアテにしていたからです。ところが頼みの味方はいっこうに現れず、有岡城で籠城するものの城兵の士気は下がっていくいっぽうでした。

ついに痺れを切らした村重は城を脱し、家臣の反対を押し切って毛利を頼ろうとします。しかし謀反の失敗を悟った村重は尼崎城、次いで花隈(はなくま)城を転々としたあげく、とうとう毛利の領国へと去ってしまいました。

そして残された者たちの運命は悲惨を極めます。村重の妻だけでなく婦女子までが処刑されてしまい、村重は歴史に大きな悪名を残すことになったのです。

村重が主君を裏切った直接的な理由ですが、実は家臣の不手際にありました。なんと織田の敵・本願寺に兵糧を横流ししたことが発覚したのです。高く売れるから流したのか?それとも本願寺に心を寄せる者がいたからなのか?その真相は不明ですが、悪いことに信長の知る所となりました。

村重は信長の性格をよく知っています。おそらく自分を許すことはないだろうと考え、やすやすと首を討たれるなら、いっそ謀反を起こして死中に活を求めようとしたのでしょう。
ところが計画性のない謀反など成功するはずもありません。最後は単身逃げ出し、身内や家臣を見殺しにするという愚かさを露呈したのです。

今も大きな謎とされる歴史上最大の謀反劇「明智光秀」


歴史の大きなミステリーとして、やはり有名なのが本能寺の変でしょう。なぜ明智光秀は主君・信長を襲ったのか?これまで多くの説が取りざたされていますが、現在に至るまで明確な答えは出ていません。

果たして光秀に「信長を倒した後はこうしたい」という将来的なビジョンはあったのでしょうか?それとも突発的な感情で暴挙に及んでしまったのか?こればかりは光秀本人にしかわからないことでしょう。

しかし光秀の謀反によって、日本の歴史は大きく変わっていきました。主君の仇を討った羽柴秀吉が台頭し、天下人への階段を駆け上がっていきます。さらに天下を引き継いだ徳川家康によって、近世への扉が開かれました。
光秀の謀反を単なる一事件だと思うなかれ、歴史が変革するエポックメイキングだったのです。

謀反の理由については多くの説がありますが、やはり契機になったのは、信長と光秀の関係が悪化したことが大きな理由でしょう。

稲葉一鉄の家臣・斎藤利三が離反して光秀に仕えた時、これを知った信長は激怒したといいます。それでも「良い家臣を抱えるのは信長のため」と称して、半ば強引に押し切りました。信長もいったんは許すものの、やはり感情のわだかまりは残っていたのかも知れません。

また宣教師フロイスの書簡によると、徳川家康を接待する段取りについてゴタゴタがあったのだとか。光秀が異論を唱えると、信長は立ち上がって激怒したとも。これには周囲の家臣もハラハラしたと記録されています。
もはや修復できないほど、両者の関係には大きなヒビが入っていたのでしょう。

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