いったいどうやって返済した!?伊達政宗の10億円の借金


「独眼竜」と異名を取った伊達政宗ですが、江戸時代に入っても生き続け、亡くなったのは寛永13年(1636年)のことでした。享年70といいますから、かなりの長生きだったのですね。
ところで政宗には現在の価値で10億円という多額の借金がありました。仙台藩といえばかなり裕福な藩だったはず。なぜ金を借りてしまったのか?またどうやって返済したのか?その謎を解き明かしていきましょう。

外様大名だけど…幕府の重鎮だった政宗


信長・秀吉・家康の時代を生き続けた政宗ですが、一時は120万石という大名となりました。ところが悲しいかな天下人との駆け引きに敗れ、江戸時代が始まる頃には半分の62万石に甘んじています。
やがて大坂城の豊臣氏が滅亡すると政宗の年齢のこともあり、天下取りへの道は完全に断たれてしまいました。

そこで政宗は江戸幕府にとことんまで尽くす覚悟を固めるのです。特に3代将軍となった徳川家光とは懇意にしていたらしく、江戸城で毎夜のように酒宴を楽しんだり、自ら料理をふるまうなど、まるで親子のような関係だったといいます。

やはり老齢に差し掛かった政宗にとって、外様に過ぎない伊達家を安泰に導くには、将軍家と仲良くするしかないと考えたのでしょう。その意図は図に当たり、政宗は幕府重鎮としての存在感を表したのです。天下泰平によって牙を抜かれた独眼竜ですが、やはり強(したた)かな古強者でした。

政宗の美食ぶりは有名で、毎日厠(かわや)に二時間以上こもっては、その日食べる料理の献立を考えていたそうです。また食べるだけに飽き足らず、自分で調理し、料理を考案することも楽しみにしていたとか。
今でも有名な「ずんだ餅」や「仙台味噌」、「凍み豆腐」などは全て政宗が考え出したそうです。

ちなみに家光にふるまった懐石料理とは、「鮒ずし」「鯛と卵の炒め物」「仙台味噌のすまし汁」といった豪華なものだったとか。さすが美食家兼料理人といった感じでしょうか。

幕府の言いなりになったおかげで借金を重ねる!?


政宗がいくら将軍と懇意になったところで、やるべきことはやらねばなりません。それが幕府から命じられる普請や土木工事といった手伝い事業でした。たしかに信頼されているから頼りにされるものの、それは仙台藩のキャパを大きく超えるものだったようです。

まず娘の五郎八(いろは)姫が家康の六男・松平忠輝に嫁いでいたのですが、その居城である高田城の普請を担当しました。政宗自身が陣頭指揮を執ったといいますから、かなり気合が入っていたのでしょう。
さらに6年後には江戸城大手門の修築を任されました。とはいえ、ただの門ではありません。将軍の居所に相応しい豪勢なもので、一つの藩が担当するには負担が大きかったようです。

その後も、やれ石垣だ、やれ堀の普請だと振り回され、政宗が気付いた時には予算が底を付いていました。足りない分は仕方なく商人から借り受け、それは仙台藩の借金として重くのしかかるのです。

当時、江戸幕府から事業を請け負っていたのは仙台藩ばかりではありません。ほとんどの藩が普請や土木・治水事業に駆り出され、すべて各藩の持ち出しで賄っていたそうです。たしかに諸藩の負担を大きくして経済的に困窮させる幕府の目的があったのですが、手伝う方はたまったものではありません。

もちろん幕府からカネなど出ませんから、諸藩は知恵を絞りつつ頭を痛めていたようです。少ない予算でできるなら御の字。もしできないなら担当する奉行のクビが飛ぶこともありました。
現在見られる江戸城・名古屋城・篠山城・明石城といった近世城郭も、そんな大名たちの汗と涙で出来上がっていたのですね。

仙台藩の江戸屋敷が全焼!?ついに10億円の借金を抱える


さて将軍のお膝元である江戸はとにかく火事が多い都市でした。江戸時代を通じて200回以上火災が起きていますから、幕府としても頭の痛いところだったようです。
寛永13年(1636年)、この年にも大きな火事があり、仙台藩江戸屋敷はものの見事に全焼してしまいました。そんな時、政宗と懇意にしていた幕閣からお声が掛かるのです。
「火事に遭ってお困りでしょう。屋敷を再建する費用を幕府からお貸ししましょうか」と。
仙台藩の経済規模であれば、自前で立て直すことが可能だったため、「それには及びませぬ」と重臣が返答しようとしたところ、待ったを掛けたのが政宗です。
「いや、それはならん。せっかくの申し出を断るわけにもいくまい」と押しとどめました。

政宗は病身を押して筆を取り、幕府老中である土井利勝と酒井忠勝に丁寧な書状を送ります。
「銀子1千貫を調えて頂き、ありがたく頂戴いたします。要請があればいつでもお返し致します」
これは「政宗直筆の借用書」と呼ばれ、現在でも仙台市博物館に所蔵されているそうです。

それにしても銀子1千貫といえば、現在の価値で10億円もの大金ですから、なぜ政宗はあえて受けようとしたのでしょう?そこには彼なりの深い考えがありました。
「これまで築いてきた幕府との信頼を、借金を断ることで無駄にはできない」政宗はそう考えます。
せっかくの申し出を断ることは幕府への忠誠を疑われることになる。すなわち無用の疑いを招くものだと判断したのです。
政宗は死の直前まで伊達家のことを思い、子孫たちが困らぬよう配慮したわけですね。

さすがは厳しい戦国の世を生き抜いて生きた政宗だけあります。戦乱の時代は終わり、これからは幕府に忠誠を尽くすことが重要だと気付いていたのでしょう。たしかに政宗は将軍家と仲が良いかも知れませんが、これからの伊達家当主はどうなるかわからない。だったら今のうちに借りを作っておくほうが賢明だと考えたのです。

また政宗は戦国の英雄だけでなく、平和な世であっても名君でした。地元では庶民が暮らしやすいよう公共事業に投資し、苛酷に年貢を取り立てることもしません。
さらに新田開発の際には「あまり厳密に届けなくてもいいよ」と見て見ぬ振りをしていました。つまり隠し田
を認めていたわけですね。江戸時代は百姓一揆が頻発した時期ですから、人心の安定こそが藩の安定に繋がることをわかっていたのでしょう。

思わぬことで借金が完済!?そのカラクリとは


さて政宗が亡くなったあと、10億円を超える莫大な借金は子孫が負うことになります。さらに2代藩主・伊達忠宗は政宗霊廟や東照宮造営でさらに費用を使ってしまい、首が回らなくなってしまいました。4代藩主・伊達綱村に至っても同様で、寺社の建築に力を入れるなど浪費が激しくなり、とうとう仙台藩の財政は破綻寸前まで追い込まれてしまいます。

しかし「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったもの。仙台藩に奇跡が起こるのです。5代藩主・伊達吉村は質素倹約に努めて財政再建を図りますが、それ以上に功を奏したのが好天による豊作でした。
折しも西日本が凶作に見舞われ、江戸へ廻送された仙台藩のコメは倍以上の高値で売れたそうです。また幕府の要請もあってコメを贈り続けたことで、借金は一気に完済されました。
こうして仙台藩は幕府の大きな信頼を受けることになり、奇しくも政宗の願いは現実のものとなったのです。

こうしてみると政宗はお金に無頓着だったと思われがちですが、実はそうではありません。息子の秀宗が宇和島藩を興した時、父・政宗から6万両に及ぶ借金を作ったそうです。ところが秀宗には、これが借金だという認識がありません。単なる祝い金だと勘違いしていました。

ところが仙台藩から返還要請が来ると、宇和島藩は上や下への大騒ぎ。家老が何とか3万石を政宗の隠居料とすることで落ち着きますが、なんと秀宗は「余計なことをしおって」とばかりに家老を切腹させてしまうのです。

これに激怒したのが政宗でした。「秀宗を勘当したうえで宇和島藩の所領をお返し致す」と大老・土井利勝に申し出たのです。ところが幕府もこれには困惑し、とうとう将軍に上奏せず、うやむやにしてしまったのだとか。
あの政宗も意外にお金には厳しかったのですね。

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