なぜ源氏が勝った?原因となった平氏の失敗5選


平安時代末期、朝廷の要職を独占して栄華を誇った平氏ですが、源氏の挙兵によってあえなく滅亡しました。総帥・平清盛の死からたった4年後のことです。
それにしても、なぜ権勢を誇った平氏があっけなく敗れ去ったのか?今回はその謎を5つの理由を元に解明していきましょう。そこには驚くべき原因があったのです。

平氏は伊勢に基盤を置いたから負けた!?


源氏は東国、平氏は西国というイメージが強いのですが、元々は真逆でした。源氏は当初、摂津や河内といった畿内を中心に活動しています。いっぽう平氏の基盤は東国にあって、平将門や坂東八平氏(はちへいし)に代表されるように坂東で勢力を広げていたようです。

ところが源氏は源頼信の代に関東で武士たちの支持を受け、さらに源頼義・義家の時代になると東国に勢力圏を築きました。さらに頼朝の父・義朝もまた東国へ下向して一大勢力を築き、坂東武士たちを傘下に収めていったのです。

いっぽう平氏はといえば、平維衡(これひら)の頃に坂東から伊勢へ移っています。当時は伊勢から東国への海上輸送ルートが盛んな時期で、平氏は海運による利益に目を付けたのでしょう。そして伊勢平氏と呼ばれる武士団に成長していきました。

ところが武士の本場といえば、やはり坂東です。平氏がいくら金持ちになろうと強さでは比較になりません。結果的に坂東武士を取り込めなかった平氏は、坂東武士たちに敗北を重ねていくのです。

元々は源氏と同じく坂東に基盤を置いていた平氏ですが、一族の活路を見出すべく伊勢へ移りました。そこで手掛けたのが海運事業です。やがて清盛の父・忠盛の頃には日宋貿易を牛耳るまでになり、大きな富を築きました。
やがて豊富な資金力を後ろ盾に中央政界へ進出していくのです。

ところが平氏は武士としての本分を忘れたのでしょうか?カネと政治の世界に身を置くうちに兵はすっかり弱くなり、攻めてきた坂東武士たちにあっけなく敗れ去ったのです。

時代のニーズに取り残された?武士の支持を失った平氏


清盛の時代に飛躍した平氏は一族そろって繁栄を極めました。ところが一転して武士たちの支持を失ってしまうのです。
もちろん平氏は武士階級ですから、初めは全国の武士からの支持を集めていました。ところが立身出世を遂げて、朝廷の権力すら握るようになると、とたんに貴族化していくのです。朝廷の要職を独り占めし、さらに膨大な荘園を手にして富を独占していきます。

「なんだ、武士の地位向上のために偉くなったんじゃないのか!」

あちこちから怨嗟の声が巻き起こり、武士の心は平氏から離れていきました。ところが平氏は有効な手段をなんら打つことすらせず、我が世の春を謳歌していたのです。これではソッポを向かれるのは当たり前でしょう。

武士が命の次に大事にしたのは「土地」でした。「一所懸命」という言葉があるように、武士たちは所領を増やし、守ることに命を賭けていたのです。

武士が世の中の中心になりつつあった時代ですから、自分の土地を保証してくれる政権を武士たちは求めていました。ところが平氏政権は自分たちの利益を追求するばかり。「平氏以外の武士はどうでもいい」と言わんばかりの態度では、武士の不満がたまっていくのは当然のことでしょう。

<h2後白河法皇との確執


もともと後白河法皇と清盛の関係はたいへん良好なものでした。ところが清盛が太政大臣になると「平氏にあらずんば人にあらず」と表現されたほど平氏は隆盛していきますが、後白河法皇はこれに不快感を覚えたといいます。

それに加えて清盛は娘・徳子(とくし)を高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)としましたが、治承2年(1178年)になって待望の皇子が誕生しました。そして清盛は「生まれた皇子を次の天皇に」と法皇に迫るのです。
腹に据えかねた法皇は、清盛の嫡男・重盛が亡くなると遺領をすべて没収するという暴挙に出ました。これには清盛も立腹し、とうとう軍勢を引き連れて威嚇したあげく院政を停止させ、さらに法皇を幽閉してしまうのです。

さて、こうした清盛の暴挙に反発した人物がいました。それが法皇の息子・以仁王です。源頼政とともに平氏打倒を志し、全国の源氏に対して決起を促す令旨(りょうじ)を発しました。
こうして以仁王の令旨を受けた源頼朝・源義仲らが立ち上がり、平氏追討のため一斉に挙兵したのです。

後白河法皇にすれば、「たかが武士のくせに…」という気持ちがあったのでしょう。自分の権勢を脅かされると感じ、徐々に平氏打倒の思いを強くしていくのです。しかし清盛の方が上手でした。いち早く強硬手段に訴え、法皇の動きを封じるのです。

ところが清盛にとって以仁王の動きは想定外であり、まさか挙兵するとは思っていなかったでしょう。しかしながら以仁王にも挙兵せざるを得なかった理由があります。それは弟・高倉天皇に皇子が生まれたことでした。清盛が強引に「生まれた皇子を次の天皇に!」と強引に押し込んだせいで、以仁王が皇位を継げる可能性がなくなったからです。

清盛は反乱こそ鎮圧するものの、以仁王の令旨は源氏を決起させるキッカケとなりました。いっぽうこんな説もあります。以仁王が令旨を発したことを知った清盛は、先手を打って伊豆の源頼朝を討とうとしました。ところが平氏軍がやって来ることを知った頼朝は、「討たれるくらいなら兵を挙げよう」と半ばヤケクソで挙兵に踏み切ったというもの。イチかバチかが功を奏したわけですね。

平氏を襲った相次ぐ不幸


清盛が後白河天皇を幽閉した頃から、平氏にとって良くないことが起こり始めています。まず同じ年に嫡男・重盛が亡くなり、次いで清盛の娘を中宮としていた高倉天皇が崩御しました。そして治承5年(1181年)には清盛までが原因不明の熱病で亡くなってしまうのです。

こうして清盛を頂点とした平氏政権は動揺し、一気に求心力を失っていきました。さらに源氏の挙兵が重なったことで平氏は衰退へのみちをたどっていくのです。

清盛が後白河天皇を幽閉した頃から、平氏にとって良くないことが起こり始めています。まず同じ年に嫡男・重盛が亡くなり、次いで清盛の娘を中宮としていた高倉天皇が崩御しました。そして治承5年(1181年)には清盛までが原因不明の熱病で亡くなってしまうのです。

こうして清盛を頂点とした平氏政権は動揺し、一気に求心力を失っていきました。さらに源氏の挙兵が重なったことで平氏は衰退へのみちをたどっていくのです。

平氏を苦しめた「養和の飢饉」


平氏が負けた理由として、源義経など優れた指揮官が源氏にいたことが知られていますが、実はもっとも平氏を苦しめたのは天候不順でした。
養和元年(1181年)に起こった「養和の飢饉」は西日本一帯を凶作にさせ、各地では大量の餓死者が発生したといいます。また京都でも4万人以上が亡くなったとされ、まさに古今未曽有の天災になりました。

平氏はそんな苦しい時期に源氏の挙兵を迎えます。飢饉によって兵や兵糧は思うように集まらず、ようやく数こそ揃ったものの、軍勢の士気はかなり低かったようです。富士川であっさり退却した理由も、兵糧の不足からくる厭戦気分だったとも。

もし飢饉が起こらず、平氏に兵糧が潤沢にあったなら、もしかすると無様な負け戦は避けられたかも知れませんね。

西日本一帯を凶作にさせ、平氏滅亡の一因ともなった養和の飢饉ですが、なぜか東日本には影響がありませんでした。むしろ稀に見る豊作だったらしく、源氏が勢いを増す要因になったとも。

実際に西日本では高温による日照りが続きましたが、東日本では作付けにちょうど良い気候となりました。こうした背景もあって、頼朝は兵糧に悩むことなく挙兵に踏み切ったのかも知れません。
ちなみに東日本のコメ余り現象は、食糧難で苦しむ西日本を救っています。それは頼朝の命令によるもので、大量のコメが都をはじめ各地へ運ばれました。

ただ頼朝にも思惑はあったようです。コメを送る代わりに東国の支配権を朝廷に認めさせる狙いがあり、やがて鎌倉幕府の成立へと繋がっていくのです。

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