家康が、悩みに悩んで決断した5選!命がけ!


いよいよ来年、大河ドラマ「どうする家康」が放映されますね。徳川家康の人生は山あり谷ありで、とても大変な生涯を送られたようです。しかし、そんな苦労があり、最善の選択をしたからこそ天下人になれたのかも知れません。
そこで今回は、家康が「どうする!?」と思った5つの場面を取り上げてまいりましょう。

味方は惨敗、敵が間近に!さあどうする!?


家康がまだ松平元康と名乗っていた若き日、今川義元が尾張を攻めるべく大軍を動かしました。家康もまた与力として加わり、先鋒として大高城へ兵糧を運び入れるなど大きな活躍しています。

ところが織田信長の強襲によって義元があえなく討ち死に。大将を失った今川軍は総崩れとなって敗走していきました。ところが家康は戦場に取り残される形となり、勝ち誇る織田軍が続々と迫ってきます。
主従わずかとなった家康一行は何とか三河へたどり着き、松平家の菩提寺だった大樹寺へ逃げ込みました。しかし、そこも安全な場所ではありません。程なくして寺は敵勢に囲まれてしまうのです。

さあ家康よ、どうする!?
絶望した家康は先祖の墓前で自害する決心を選びますが、そこに救いの手を差し伸べたのが寺の住職・登誉上人(とうよしょうにん)でした。上人は「生き延びて平和な世を実現せよ」と諭し、自害することを思いとどまらせます。

やがて僧たちの助力もあって敵を退散させることに成功。家康は懐かしい岡崎城へ入りました。そして今川家の支配から脱し、戦国大名として独立を果たしていくのです。

この時に登誉上人が家康に送った言葉とされるのが「厭離穢土欣求浄土」です。これは家康の旗印としても用いられ、その精強ぶりを表す代名詞となりました。

この言葉の意味するところは、「この乱れた世では誰もが欲望のままに戦い、国土は穢れ切っている。しかし一心に平和を願うならば、必ず仏の加護を得て宿願が果たされるだろう」というもの。
家康が天下人となり、戦乱の世を終わらせたことを考えれば、実に感慨深いものがありますね。

甲斐の虎・武田信玄の侵攻!さあどうする!?


信長と同盟を果たし、さらに三河・遠江の大名となった家康ですが、もっとも恐れる敵が動き出します。それが甲斐の虎こと武田信玄でした。いっぽう家康が動かせる兵力は、その半分にも満たない有様です。さて浜松城へ迫ってきた武田軍ですが、目前で急に向きを変えて西を目指していくではありませんか。

家康はこの動きを挑発だと感じました。「敵に背中を向けるとは…わしでは相手にならんということか!」
このまま見過ごせば武門の恥辱も同然。かといってこれは信玄が仕掛けた罠かも知れません。追うか?見過ごすべきか?決断の時が迫ります。

さあ家康よ、どうする!?
家康は家臣の反対を押し切って追撃することを選びました。敵が台地から下りる瞬間を狙って攻め掛けようというわけです。
ところが、信玄は罠を仕組んでいました。東から徳川軍が追いつくと、なんと完璧な布陣で待ち構えていたのです。武田軍は恐るべき勢いで徳川の陣を蹂躙し、ほんの2時間ほどで勝敗は決しました。総崩れとなった徳川軍は多くの家臣を失いつつ浜松城へ逃げ込みます。家康も命からがら戦場を脱し、恐怖のあまり馬上で脱糞したとも。幸いなことに武田軍は浜松城を攻めることなく三河方面へ移動。程なくして信玄が亡くなったことで、家康は危機を脱したのです。

これが世にいう三方ヶ原の戦いですが、この時に家康が取った陣形は「鶴翼」だったとされています。坂を下りようとする敵を囲んで撃破しようと考えたのですが、信玄の方が一枚も二枚も上手でした。なんと「魚鱗」の陣を敷いて待ち構えていたのです。
ただでさえ兵力に劣る徳川軍にとって、それはもっとも不利な戦い方でした。薄い陣形は真ん中から断ち割られ、あっけない惨敗を喫したのです。

しかし家康にとって、この合戦での経験が大きな財産となりました。武田軍の戦法を研究し、徳川軍をさらに強い軍勢へ育てるきっかけとしたからです。

嫡男がまさかの謀反!さあどうする!?


長篠の戦いで武田勝頼を破った家康ですが、ちょうど困った問題に直面していました。嫡男・信康の正室として信長の娘・徳姫を迎えていたのですが、どうも仲が良くないのです。信康が側室を持ったことも一因ですが、何より家康の妻・築山殿が徳姫と反目し合っていました。

そんな中、ついに徳姫がキレるのです。父・信長へ十二箇条にわたる弾劾状を送り付け、信康と築山殿の非を鳴らしました。その中に「二人は武田と密通しており、謀反を起こそうとしている」とあったから大変です。
家康の家臣が申し開きのために安土城へ派遣されますが、信長の怒りは解けそうもありません。このまま放置すれば徳川家は潰されるかも知れません。

さあ家康よ、どうする!?
ここで家康が出した答えは、愛する信康を消し去ることでした。信長からの嫌疑を晴らし、徳川家を安泰へ導くには、これしかないと判断したのでしょう。間もなく信康は自害を命じられ、築山殿もまた暗殺されたそうです。

これまでの通説ですと、信長から「信康を殺せ!」と命じられ、家康は泣く泣く信康を自害させた。となっていますが、これは誤りのようです。実際には信長が命じたわけではなく、「徳川殿にお任せする」と述べただけでした。

家康は自分で確認したかったのでしょう。本当に謀反を起こす気があったのか?わざわざ岡崎城へ出向いて信康と話をしているほどです。しかし謀反の事実は変わらず、信康の罪は明らかとなりました。
それでも数日は身柄を転々と移動させていますから、おそらく信康が翻意し、謝罪することを期待したのでしょう。
しかし信康の意思は変わりませんでした。ついに家康も徳川家のため、愛する嫡男に自害を命じたのです。

宿敵・秀吉との対決!さあどうする!?


盟友・織田信長が本能寺で斃れたあと、急速に勢いを伸ばしてきたのが羽柴秀吉です。明智光秀を討ち、柴田勝家を滅亡させると、いよいよ家康との対決が始まります。
信長の次男・織田信雄と結んだ家康は尾張を決戦場に選び、かつて信長の城があった小牧山に堅固な砦を築きました。いっぽう秀吉も大軍を編成して織田・徳川軍と対峙します。

長久手の戦いで勝利を収めた家康は有利に戦いを進めるも、次第に戦況は膠着していきました。背後に敵を抱える秀吉も長い対陣には耐えられず、ついに信雄と単独講和に踏み切って戦いに終止符を打ちます。

戦いで決着できなかった秀吉にとって、やはり家康は恐ろしい敵です。何としても臣従させねば天下を治めることはできないでしょう。そこで秀吉はあの手この手で家康に上洛を促します。
信雄を通じて上洛を斡旋したり、あるいは官位を与えようとしますが、家康も簡単にはうなずきません。

そこで秀吉は究極の手段を用います。それは自らの妹・朝日姫を正室として家康に差し出すことでした。いわば臣従させる側が人質を出すのですから、秀吉としてもなりふり構っていられなかったのでしょう。
家康は朝日姫を正式に迎えますが、まだ上洛するつもりはありません。このままでは秀吉の顔も立たず、いつ再戦になってもおかしくありません。

さあ家康よ、どうする!?
秀吉はまたしてもとんでもない手段を用いてきました。朝日姫の見舞いと称して、自分の母を差し出したのです。「妹のみならず母親まで人質に出すと申すか」家康は驚き、同時に秀吉の誠意を感じました。もはや強情を張るつもりはなく、ようやく上洛に踏み切ったのです。

家康と秀吉の全面対決となった小牧の役ですが、長い対陣の果てに痛み分けとなりました。しかし秀吉は再戦する気満々だったようで、実は諸大名に命じて戦支度をさせていたほど。
また尾張や美濃の城を改修させたり、兵糧を大量に準備させるなど、今度こそ家康を滅ぼすつもりでした。

ところが出陣直前、思わぬ出来事が起こります。それは天正大地震と呼ばれる天災でした。甚大な被害は中部地方を中心に広範囲へ及び、もはや合戦どころではなくなります。
こうして秀吉の出兵は立ち消えとなり、徳川家は救われました。もし自身が起こらなかったら、家康の運命もどうなっていたかわかりませんね。

反家康派が上方で挙兵!さあどうする!?


秀吉亡きあと、家康は五大老筆頭として豊臣政権を差配しました。また自らの権威を盤石のものとするため、次々に布石を打っていくのです。それは他の大老たちを実力で従わせることでした。

前田利家の跡を継いだ利長に謀反の疑いを掛けて屈服させ、さらに会津の上杉景勝に対しても「謀反の気配あり」と糾弾し、自ら大軍を率いて討伐に乗り出します。
ところが小山まで進んできたところで、石田三成ら反家康派が挙兵した事実を知りました。上方には諸大名の妻子も多く、もはや会津征伐どころではありません。しかし背中を見せれば追撃を受ける可能性も高いでしょう。

さあ家康よ、どうする!?
家康が決断したのは、西へ反転して反家康派を討つことでした。もちろん上杉家を釘付けにするため、抑えに息子・結城秀康を配置し、さらに伊達や最上など奥羽の大名に牽制させます。こうして美濃の関ヶ原で家康は大勝利し、実質的な天下を手中に収めました。

家康が勝利した理由、それは手紙大作戦にありました。自分で書いたり、あるいは家臣に書かせるなどして、その数は120通に及ぶとか。

家康にはわかっていました。反家康派いわゆる西軍の士気が低かったことを。「ぜひ味方になってほしい」と家康から頼まれれば、やはり気持ちはぐらついてしまうもの。やはり歴戦の武将であり、人間の器も大きかった家康だからこそ、言葉の重みもあったのでしょうね。


	

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