信玄と謙信、勝者はどちらだ!


「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄と、「越後の龍」の異名を取った上杉謙信。互いに好敵手として名を馳せた二人ですよね。そして川中島を舞台にした5度にわたる合戦で両者は相まみえるのです。
史実では「引き分け」ということになっていますが、実際のところ最後に勝ったのはどちらだったのでしょう?さまざまな観点から検証してみたいと思います。

どのみち信玄は謙信とぶつかる運命にあった!?


まだ晴信と名乗っていた信玄が父を追放して家督を継いだ頃、甲斐国はまだまだ不安定な状態でした。父・信虎の代で甲斐を統一したとはいえ、内乱が終わってからまだ20年しか経っていません。
甲斐はもともと山がちで豊かな国ではありませんから、武田家は単なる弱小勢力に過ぎませんでした。

また東の北条、南の今川という強力な戦国大名に挟まれ、もしトラブルが起こってしまえば挟み撃ちにされる可能性もあるでしょう。そこで信玄は隣国・信濃国に目を付けるのです。信濃は広大で土地も肥沃ですし、何より武田家を脅かすだけの強敵がいません。信玄は外征政策に舵を切って、諏訪地方を皮切りに中信(ちゅうしん)・伊那・佐久、そして北信へと勢力を拡大していきました。

やがて北信の最大勢力だった村上義清を追放すると、川中島一帯は信玄の支配下に入ります。ところがこれに待ったを掛けた人物がいました。それが長尾景虎こと謙信です。北信地方は越後とは目と鼻の先ですから、武田家が信濃へ進出する以上、謙信とぶつかることは必然でした。

武田家は信虎の時代から、北条や今川、さらには信濃の諸豪族と争いを繰り返していました。まさに周囲に敵を抱えた状態ですから、大事な国力をすり潰していたのです。
しかし信玄の時代になると方針は大きく転換されました。あえて大国と戦わず、弱い敵から攻めるという手段に打って出ます。とはいえ背後から襲われないとも限りません。そこで信玄が飛びついたのが甲相駿三国同盟でした。互いに縁戚関係を結ぶことで強固な同盟関係を結び、背後の安全を確かなものとしたのです。北条は対上杉管領家と安心して戦えますし、今川は西に専念できます。さらに武田は後顧の憂いをなくして信濃攻略に集中できました。こうして信玄は謙信と対峙することになります。

謙信のお人好しぶりのせいで、川中島の戦いが起こった!?


いっぽう謙信のいる越後でも、長く続いた戦乱がようやく終わりを迎えていました。父・為景の代から国中を巻き込んだ抗争を繰り返していましたが、謙信が兄・晴景から家督を譲られたことで、ようやく平穏な時を迎えたのです。

謙信は一門や国衆・土豪たちをうまくまとめ上げ、新時代のリーダーとしての地位を確固たるものにしました。ところが謙信にとって招かれざる客が越後へやって来るのです。
北条家に敗れ去った関東管領・上杉憲政が謙信を頼ってきたのは、家督を継いでから3年後のこと。泣きついてきた憲政は「奪われた関東を取り戻し、自分に代わって関東管領になってほしい」と懇願しました。

謙信は「義の武将」として知られていますから、もちろんこれを快諾します。そして関東諸将の軍勢を率いて出陣し、一時は小田原城を囲むほどの勢いを得ました。ところが北条家もさるもの。北条氏康は粘り強く戦って、謙信が越後へ戻る頃を見計らって領地を取り戻すのです。

こうした膠着状態の中、謙信を頼る者がまたしても現れました。それが領地を信玄に奪われた村上義清ら北信の諸将です。物の道理を重んじる謙信は、彼らのために領地を取り戻すことを約束しました。ここまでくると、よく言えば義理人情に厚いのですが、悪く言えば単なる「お人好し」に過ぎません。
こうして謙信もまた川中島の戦場で、信玄に相まみえることになるのです。

義に厚く、弱き者を助けようとした謙信はとても立派な人物でした。それが謙信の個人的感情だけなら良いのですが、付き従う家臣はたまったものではありません。
本来、武士とは手柄を挙げて恩賞にあずかるもの。ところが謙信の戦いはあくまで他人のためのものでした。いくら領地を奪ったところで、いくら励んだところで自分の恩賞にはならないのです。

不満を抱いた家臣の中には謙信を見限る者、互いに争う者が相次ぎました。それでも謙信は「義」を掲げて家臣たちを鼓舞します。ようやく家中が一つにまとまった時、越後勢は恐るべき力を発揮するのです。

大激戦となった八幡原の戦い


川中島の戦いは5度にわたって行われたといいます。その中でも激戦となったのが4回目にあたる八幡原の戦いでした。武田軍による啄木鳥戦法が有名ですが、謙信は初めから見抜いていたとも言われています。
この時、上杉軍は1万2千、武田軍は2万余りの戦力ですから、いかに戦上手の謙信であっても勝つことは難しいでしょう。

「信玄は必ず軍勢を二手に分けて攻め掛かるはず」と見越し、妻女山の本陣で好機をひたすら待ちました。
そして武田軍からたなびく炊事の煙が普段より多いことを看破すると、素早く軍勢をまとめて、その夜のうちに千曲川を渡らせます。そして八幡原が霧に覆われた翌朝、目の前にあったのは信玄の本陣でした。これが謙信の待ち望んだ主力同士の決戦だったのです。

上杉軍は猛攻を繰り返して武田方の武将を次々に討ち取りますが、信玄はひたすら持ちこたえて別動隊の来着を待ちます。そして信玄の身もあわや。というとき、ついに別動隊が上杉軍の背後を衝きました。さすがの謙信も不利を悟り、兵をまとめて善光寺方面へ引き上げていったのです。

前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちとされていますが、両者とも勝鬨を上げているあたり、とにかく勝利を宣言したかったのでしょう。

それにしても妻女山に陣取っていた上杉軍が、なぜ素早く行動を起こして八幡原へ進出できたのでしょう?本来なら1万を超える軍勢を山から下ろし、態勢を整えるだけでも時間は掛かりますし、おそらく武田軍に見つかってしまうでしょう。そこには秘密がありました。実は妻女山をよく見ると平坦な場所はほとんどありません。おそらく謙信の本陣のみを山頂に置いたか、もしくは物見を山へ放って見張らせていたのでしょう。上杉軍の主力は妻女山を取り巻く平地にいて、謙信の下知がくだるや素早く機動していたものと思われます。さすがは「常在戦場」を心掛けていた謙信ですね。

川中島のその後…


川中島の戦いの結果、信玄は北信地方を守り抜いたことで勝者となりました。いっぽう謙信は約束した土地を取り戻すことができず、本来の目的を果たせなかったのです。

その後、信玄と謙信が正面切って戦うことはありませんでした。謙信にとって重要なのは関東方面であって、武田が仕掛けてこない以上、北信地方など放置しても構いません。
いっぽう武田にしても越後まで攻め入る余力などないでしょう。それより西上野(にしこうずけ)や、弱体化した今川家に狙いを絞った方が楽に領土を拡大できるのです。

ライバル関係にあった両者ですが、やがて武田と上杉は手を組んで同盟を結ぶことになります。奇しくも信玄と謙信が亡くなり、息子たちの代になってからでした。

信玄も謙信も、ともに天下を手中にできる実力があったとされています。しかし時間を無駄に掛け過ぎました。両者が川中島で争っている間に織田信長が台頭し、あっという間に上洛を果たしたからです。

ようやく信長を懲らしめようと大軍を起こすのですが、もはや信玄・謙信ともに寿命を迎えつつありました。よく「信長は幸運だった!」なんて言われますが、それだけではありません。余計な戦乱に巻き込まれたせいで限りある時間を浪費してしまい、ついに信玄と謙信は天下に旗を立てることなく亡くなったのです。
これも中央から遠く離れた戦国大名の運命だったのかも知れませんね。

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