信長が恐れた武将TOP5


戦国の風雲児として天下人への道をひた走った織田信長。そんな彼が恐れたという武将が何人もいました。いかにして信長は追い詰められていったのか?今回はランキング形式でご紹介したいと思います。

第5位 今川義元

青年期の信長が最も恐れたのが今川義元でした。実は織田家とは因縁があり、かつて那古屋城を信長の父・信秀によって奪われたという経緯があります。「いつか必ず取り戻す!」義元はそう決意していたに違いありません。

信長が家督を継いだあと、今川の勢力は三河全域へ及び、さらに知多半島一帯を奪い取るなど、次第に織田家は圧迫されていきました。

さて永禄3年(1560年)になると信長は逆襲に出ます。今川に奪われた鳴海城や大高城の周辺にいくつも砦を築き、包囲する態勢に出たのです。この動きを見た義元は、いよいよ雌雄を決するべく腰を上げました。

さて信長は最大のピンチに陥ります。今川軍は2万以上、かたや織田軍は3千足らずという状況。ここで信長は乾坤一擲の大勝負に出ました。義元本隊が大高城を目指すべく桶狭間山へ向かうという情報をキャッチし、動かせるだけの兵を率いて迎撃に向かったのです。

たまたま休息していた義元は、思わぬ織田軍の強襲を受けてあえなく討ち死にを遂げました。
こうして信長は危機を脱し、ここから天下へ名乗りを上げていくのです。

なぜ今川義元が大軍を率いて攻め寄せたのか?これまでの通説では「信長を倒して天下を狙うつもりだった」とされてきましたが、近年の歴史研究によると、決してそうではないことがわかってきています。鳴海城と大高城を囲む織田軍を排除し、あわよくば尾張東部を支配下に置こうとした。それが義元の目的だったとされています。かつて織田信秀に奪われた那古屋城を取り返したい思いもあったのでしょう。
窮鼠猫を噛むとはよく言ったもので、思わぬ信長の逆襲によって宿願は潰えてしまったのです。

第4位 上杉謙信

あの信長が、特に気を使った武将が上杉謙信でした。武田家と同盟を結んでいた信長ですが、武田信玄から厄介ごとを頼まれています。それが「上杉家との和睦」でした。
信玄とすれば南の駿河を狙いたいのに、北の上杉が邪魔で仕方がありません。そこで信長に仲介を依頼してきたのです。

同盟締結に奔走する信長でしたが、ここで信玄がまさかの裏切り行為に出ました。なんと将軍・足利義昭の檄に応じて織田・徳川と手を切って刃を向けてきたのです。
こうなれば致し方ありません。信長は武田と断交して、今度は謙信と手を結びました。信長は相当気を使ったらしく、南蛮風のマントや名馬を贈ったとも、豪華な洛中洛外図屏風を描かせて贈呈したといいます。

しばらは信長と謙信の蜜月関係が続くのですが、ついに両者の関係は破綻を迎えました。謙信は不倶戴天の敵だった一向一揆と和睦し、大坂本願寺の顕如と手を結んだのです。
天正4年(1576年)、上洛への地ならしとして謙信は能登へ進攻。翌年には七尾城を囲んで落城寸前まで追い詰めました。いっぽう信長は七尾城救援のために柴田勝家らを派遣しています。

しかし謙信は強すぎました。手取川の戦いで織田軍は叩きのめされ、惨敗を喫してしまったのです。これには信長も焦ったことでしょう。ついに越前付近で決戦か?と思われた矢先、思わぬことが起こりました。出陣を目前に控えた謙信が春日山城で斃れ、帰らぬ人となったのです。これには信長も胸を撫でおろしたことでしょう。

それにしても上杉謙信は時間を掛け過ぎました。やれ関東だ、やれ川中島だと四方八方へ軍勢を派遣するものの、ほとんど得るところはありません。そればかりか時間を空費してしまい、念願だった上洛はついに果たせずじまいとなったのです。

もし謙信が信玄と呼応して立ち上がっていたなら?きっと信長は人生最大のピンチを迎えことでしょう。逆を言えば、信玄・謙信の相次ぐ死によって、信長はいよいよ天下統一への道筋を見据えるようになったのです。

第3位 武田信玄

信長の領地・美濃は、ちょうど武田信玄の勢力範囲と接していました。上洛したばかりの信長は、いち早く武田に接近して同盟を結んでいます。信玄の娘を嫡男・信忠に迎えるという約束で。また徳川家康とも清州同盟を結んでいますから、これで背後を気にすることなく畿内の政治に専念できます。

ところが先ほどお話した通り、思わぬ信玄の裏切りが起こりました。大軍を率いて家康の本拠・遠江へ押し寄せてきたのです。「約束違反だ!」と抗議しても聞き入れる信玄ではありません。美濃は武田別動隊によって攻撃され、さらに家康がいる浜松城へ信玄の本隊が迫りました。

ここで家康は逆襲を掛けるのですが、三方ヶ原であえなく惨敗。信長が送った援軍も壊滅に陥っています。
さらに翌年に入ると進軍速度を速め、三河の要衝である野田城までが囲まれました。もし信玄が三河を抜けば、あとは織田の本国・尾張まで目と鼻の先です。

その頃、信長は浅井・朝倉、大坂本願寺、長島一向一揆を相手に苦闘を強いられていました。もはや向かってくる信玄を食い止める手段は残されていません。
ところが運命は信長に味方しました。信玄の病がにわかに重くなり、そのまま没してしまったのです。この幸運によって信長は息を吹き返し、並み居る敵を撃破していきました。

信玄が迫っていた頃、信長は四面楚歌となって苦しんでいました。盟友・家康の援軍にたった3千しか送れなかったほどですから、よほど余裕がなかったのでしょう。いっぽう信玄はさすがに戦上手でした。本軍で浜松へ圧迫を加えつつ、山県昌景や秋山虎繁といった部将を各方面から侵入させ、織田・徳川の注意を引き付けています。こうして信長はあちこちに兵力を分散させてしまう形となりました。恐るべき信玄の戦略といったところでしょうか。

第2位 足利義昭


永禄11年(1568年)、足利義昭はついに信長を伴って上洛を果たしました。もちろん二人は蜜月の関係となりますが、早くも数年後には溝が出来てしまいます。その原因となったのが、義昭に対して信長が提出した「十七箇条の意見書」でした。

信長はかねてから義昭の職務怠慢・独断専行に腹を据えかねており、とうとう思い余って意見したのです。ところが義昭はそんな信長の態度を怨み、ついに打倒信長に踏み切ります。そして各地の諸勢力に檄を飛ばして信長包囲網を築き上げました。武田も上杉もみんな義昭にそそのかされて敵対したのです。

一時は追い詰められた信長ですが、ついに義昭を京都から追放して危機を脱しました。しかし義昭は毛利を頼って幕府を移し、信長が亡くなるまで反抗し続けたのです。

信玄や謙信が信長打倒を目指したのも、すべて義昭が暗躍したせいでした。もともと信長には、義昭を追い落として実権を握ろうというつもりはこれっぽっちもありません。ただ幕府をしっかりと保ち、天下の静謐を願いたかっただけなのでしょう。ところが信長の思いとは裏腹に、義昭は人に不公平な態度で接するわ、勝手に御内書は発給するわ、何事につけ欲が深いわで、民衆から「悪しき御所」と言われる始末でした。政治を正すため、信長は致し方なく意見したに過ぎません。まさに逆恨みもいいところだったのです。

第1位 本願寺顕如


信長がもっとも恐れた存在。それは強い武将でもなく、暗躍する将軍でもありません。一向一揆こそ最大の敵だったのです。戦国時代、大坂本願寺を中心とする一向一揆は加賀・越中・伊勢・三河にまで及び、既得権益層だった武士をたびたび脅かしています。また強大な武力と経済力は並み居る戦国大名を凌駕するほどでした。

また宗教のパワーほど怖いものはありません。一向宗の場合、「念仏さえ唱えれば極楽へ行ける」と説いていますから、信者たちは死をも恐れぬ存在です。むしろ死ぬことを願って織田軍と激闘を繰り広げました。

信長は、弟たちや多くの家臣を失いつつも、天正8年(1580年)にはついに大坂本願寺を屈服させました。足掛け10年もの間、戦い続けたわけですから、その労力たるや想像を絶しますね。
こうして厄介な宗教勢力を退けた信長でしたが、この2年後に非業の死を遂げるのです。

信長や秀吉の死後、江戸幕府を開いた徳川家康も宗教勢力を警戒しました。なぜなら家康自身も一向一揆に苦しめられた経験を持つからです。一向宗の総本山である本願寺を東西に分割して互いに反目させましたし、禁教令を出してキリスト教を抑え込んだのも宗教の暴発を防ぐためです。信長の時代以降、日本で宗教戦争が起こらなかったのは、家康の功績だと言えるかも知れませんね。

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