謎だらけの源頼朝の死因とは?歴史から抹消!歴史解説


鎌倉幕府を興して武士の世を作り上げた源頼朝ですが、亡くなったのは建久9年(1198年)のこと。通説によると落馬であったとも病死したとも伝えられています。ところがその死に関して不可解なことが多すぎるのです。
実は頼朝と御家人たちの間には確執があったようですが、いったい何があったのか?今回は頼朝の死についての謎を解き明かしていきたいと思います。

東国の御家人たちを率いた頼朝

平治の乱で敗れ、没落してしまった源氏ですが、御曹司の源頼朝は命を助けられて伊豆へ流されました。そこで20年の雌伏の時を過ごすのですが、「流人のまま朽ち果てていくのか…」頼朝はそんな絶望感を抱えていたことでしょう。

ところが、そんな頼朝の元へ「平氏を倒せ」という以仁王の令旨(りょうじ)が届くのです。頼朝はさっそく伊豆や相模の武士を集めて挙兵し、堂々と平氏に戦いを挑みました。
石橋山の戦いでは惨敗を喫するものの、房総半島へ逃れた頼朝は安房・上総の武士団を糾合。一気に関東平野を突っ切って鎌倉を攻略します。鎌倉はかつて父・義朝が館を構えた地でした。頼朝もまた鎌倉を拠点に東国経営に乗り出していくのです。

また配下の武士たちは頼朝を盟主として仰ぎ、決して平氏や朝廷に邪魔されない坂東武士だけの王国を目指しました。そんな頼朝も決して鎌倉から離れることなく、彼らの心を繋ぎ止めるのです。

それにしても、なぜ平氏は頼朝を伊豆へ流したのでしょうか?坂東といえば源氏の聖地ですし、頼朝に心を寄せる武士も多いはずでしょう…実は源頼政という武将の暗躍がありました。頼朝とは別系統となる摂津源氏の出身で、平清盛も厚く信頼を寄せていたのだとか。また伊豆は頼政の知行国だったため、「私が頼朝の身柄を預かりましょう」と申し出れば、清盛も断る理由などありません。「おお、そうか、頼政が預かるなら安心じゃ」となったはずです。
ちなみに頼朝が流されたのは「蛭ヶ小島(ひるがこじま)」という伊豆半島の付け根にある場所ですが、清盛はその地名を聞いて「島ならば逃げ出すことはあるまい」と勘違いしたそうです。西国で生まれ育った清盛には土地勘がなかったのでしょうね。

平氏討伐に難色を示す御家人たち…頼朝が取った手段とは?

さて鎌倉を本拠に坂東支配を進めていく頼朝ですが、目標はあくまで平氏打倒にありました。木曽義仲がいち早く平氏を追い出して京都へ乗り込んでいますから、やはり気が気でなかったことでしょう。
とはいえ坂東武士たちにそんなつもりなど毛頭ありません。せっかく坂東に武士だけの都を築いたのだから、危険を冒してまで西国へ乗り込むなど考えもしなかったのです。

「大義名分さえあれば…」そう思い悩む頼朝のもとへ最大のチャンスが訪れます。それは後白河上皇から「上洛せよ」との宣旨でした。上皇は義仲ではなく頼朝を選んだのです。
さっそく弟の範頼・義経を西国へ派遣して義仲軍を打ち破り、続いて平氏を壇ノ浦で滅ぼしました。こうして頼朝は全国に及ぶ支配権を手に入れたのです。

頼朝に先駆けて上洛を果たした源義仲ですが、後白河上皇の信任を得るまでには至りませんでした。田舎育ちの武士は先々で乱暴狼藉を行い、都の警備どころか治安を悪化させてしまう始末だったのです。そんな上皇と義仲が仲良くなれるはずもなく、とうとう頼朝による討伐を受けてしまいました。

もし義仲にそれなりの教養があり、調整力があり、政治力があったなら、決して頼朝の介入を許さなかったことでしょう。いっぽう大江広元ら政治力に優れた公家を側近とした頼朝のほうが一枚も二枚も上手でした。やはり義仲は負けるべくして負けたのでしょう。

実力者を次々に粛清!恐るべき権力者の顔とは?

勢力を拡大していく頼朝にとって、次に脅威となったのが政権内部の実力者でした。頼朝は御家人連合政権の盟主に過ぎませんから、いかにして彼らを統制するかがカギとなったのです。頼朝が取った手段。それは粛清の恐怖を与えることでした。

まず標的となったのが上総広常です。広常は日頃から頼朝に対し、「なぜ朝廷ばかりに気を使うのだ?大事なのは坂東の経営ではないのか?」と諫言していました。朝廷すら牛耳りたい頼朝にとって、次第に広常の存在は邪魔なものとなっていくのです。
寿永2年(1183年)、広常はじめ上総一族は、謀反の罪を着せられて粛清されました。鎌倉の御家人たちは頼朝のやり方に恐怖したといいます。

さらに平氏討伐に功のあった弟・義経を、専横の振る舞いが多いとして鎌倉へ入れず、謀反を企てたとして追手を差し向けました。義経は奥州藤原氏のもとへ逃れますが、結局は藤原泰衡によって討たれています。

残った弟・範頼もまた悲しい最期を遂げました。富士の巻狩りで曽我兄弟の仇討があった時、「頼朝が討たれた」という誤った情報が流れます。それを聞いた頼朝の妻・政子は嘆き悲しみますが、範頼は「兄上が亡くなっても、私がおります」と慰めました。これを伝え聞いた頼朝は弟に疑いの目を向け、追放したあげく暗殺に及んだとも伝わっています。

人は誰でも大きな権力を握ると、手放すまいと他人に猜疑の目を向けるもの。これも権力に憑りつかれた人間の定めでしょうか。
ちなみに頼朝の弟で生き残っていたのは範頼・義経・阿野全成(あの ぜんじょう)の三人だけでしたが、うち二人は頼朝によって粛清され、全成もまた頼朝が亡くなったあとに暗殺されています。

のちに頼朝の嫡男・源頼家が跡を継ぐのですが、すでに頼れる身内がほとんどいませんでした。後ろ盾のない頼家は、やがて北条時政・義時父子によって実権を奪われていくのです。

頼朝は暗殺された!?その死の真相とは?


奥州藤原氏を滅ぼして覇者となった頼朝が次に目を向けたのが都です。頼朝は生粋の都育ちですから、やはり京都に愛着があったのでしょう。

30年ぶりに上洛した頼朝は右近衛大将(うこのえのたいしょう)に任じられますが、これをすぐに辞退しています。高い官職に就くのはまんざらでもありませんが、宮中での儀式や典礼に参加することが義務となっていました。そうなると鎌倉を捨て、京都に居続けるしかありません

そこで頼朝は征夷大将軍の職を望むのです。「令外官(りょうげのかん)」とされる将軍であれば、京都にいる必要はありませんし、左大臣と同じ位階ですから申し分ありません。頼朝が将軍となった理由はそこにありました。

ところが頼朝が抱く都へのノスタルジーはますます強くなっていきます。「天皇と繋がりを持ちたい」とさえ思うようになり、ついには娘の大姫を後鳥羽天皇に入内(じゅだい)させようとしました。生まれつき体の弱かった大姫は若くして亡くなるものの、頼朝はあきらめません。さらに次女・三幡(さんまん)を次の候補と定め、天皇の女御(にょうご)の称まで与えたといいます。

頼朝のなりふり構わぬ行為を知った御家人たちは、みな眉をひそめました。「鎌倉殿は天皇と縁戚になり、平氏に成り代わろうとしているのだ」と。せっかく平氏の支配から脱したのに、頼朝が平氏の代わりになるのでは本末転倒もいいところ。程なくして頼朝排斥が企てられ、おそらく何らかの方法で頼朝は暗殺されたのでしょう。

やがて2代将軍・頼家が就任すると、御家人たちは将軍の権力を制限するべく13人による合議制を敷きました。
頼朝がそうであったように「将軍の勝手な振る舞いは許さない」という思いの表われだったのでしょう。

こうして御家人たちによって頼朝は暗殺されましたが、その事実は記録として残りませんでした。鎌倉幕府の吾妻鏡(あづまかがみ)という記録には「落馬して亡くなった」と書いてあるのですが、なんと頼朝の死から13年も経ってから記載されたものです。

さらに頼朝が死に至る3年間の記録がごっそり抜けているあたり、消されたのか?それともあえて書かなかったのか?これは不思議としか言いようがありません。
もしかすると武家の棟梁としてふさわしくない死に、意図的にフタがされたのかも知れませんね。

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