豊臣家、滅亡!8歳、国松を斬首!歴史解説!


天下人・秀吉の後継者となった豊臣秀頼ですが、大坂夏の陣で徳川幕府軍と戦い、最後は大坂城と運命をともにしました。まだ23歳の若さだったそうです。
ところがそんな秀頼には二人の子供がいました。娘の奈阿姫(なあひめ)、そして息子の国松です。戦いが終わってのち、二人は苛酷な運命に直面することになります。厳しい戦国のさだめとはいえ、あまりに悲しすぎる物語をご紹介していきましょう。

秀頼の側室の子として生まれた国松

関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利に終わった時から豊臣家の凋落は始まります。東軍諸将に恩賞を与えるという名目で豊臣の領地は削られ、気付いた時にはたった65万石の大名に転落していました。
それでも家康は亡き秀吉との約束を守り、孫娘・千姫を秀頼の元へ嫁がせることで、徳川と豊臣の絆を深めようとしたようです。

そして慶長13年(1608年)に国松が生まれ、翌年には奈阿姫が産声を上げます。とはいえ正室・千姫が産んだわけではなく、側室に産ませた子供たちでした。
ちなみに国松の母は伊茶といい、秀頼の母・淀殿に関連した女性です。伊茶の父・渡辺五兵衛(ごへえ)は摂津の土豪で、淀殿の奥庭(おくにわ)衆を務めていましたから、淀殿の肝いりもあって伊茶が側室として選ばれたのでしょう。

秀頼には正室・千姫の他に、複数の側室がいたことが確認されています。中には側室が6人もいたという説もあるとか。しかし徳川家康がいる手前、側室の存在は秘密にされていたようです。もし側室が子供を産めば、それは徳川にとって好ましいことではありません。
国松と奈阿姫が生まれた時、その事実はひた隠しにされ、おそらく秀頼本人も誕生を知らなかったのでしょう。しかし秀頼の母・淀殿は、それでも豊臣の血を残そうと考えました。豊臣家がやすやすと衰退したのは頼れる身内がいなかったからこそ。秀頼の血を分けた子供が生まれることで、頼れる身内を増やし、豊臣家の将来を安泰にしたかったのかも知れません。とはいえ秀頼の子供であるのに歓迎されない。親子であるのに認められない。そんな悲しいことがあるでしょうか?こうして国松の苛酷な人生は始まったのです。

父の顔を知らないままに育った国松

生まれたばかりの国松は父と対面することなく、若狭の大名・京極家へ預けられました。もちろん国松が生まれた事は秘密であり、淀殿はじめ一部の人間しか事実を知りません。
人知れずひっそりと若狭へ入った国松は京極家で養育され、やがて砥石屋弥左衛門(ときや やざえもん)という者の養子となりました。国松の乳母が弥左衛門の妹だったからです。

もちろん国松の存在は秘密ですから、「豊臣」の姓を名乗るわけにはいきません。かといって京極家の養子になることも憚られます。国松が弥左衛門の養子になったのは、まさに苦肉の策だったのでしょう。
とはいえ秀頼の息子であるにもかかわらず、父と同じ姓を名乗れないのですから、これほど悲しいことはありません。国松も幼な心の中で、世の不条理を感じていたのではないでしょうか。

そんな国松ですが、やはり秀頼の血を受け継ぐサラブレッドだったようです。態度は常に凛としており、利発さも際立っていたとか。幼いながらも体格は立派だったらしく、やはり偉丈夫だった秀頼の遺伝子を継いでいたのでしょう。
「駿府記」という書物の中では国松のことを「容貌美麗」と記していますから、見目麗しい美少年だったことがうかがえます。

ところでなぜ国松は若狭の京極家へ預けられたのでしょうか?そこには豊臣家と京極家の深い繋がりがありました。亡き豊臣秀吉には数えきれないほどの側室がいましたが、その中で特に気に入っていた女性が、松の丸殿こと京極竜子です。

秀吉が亡くなったあと、竜子は兄・京極高次のもとへ身を寄せました。やがて高次が大津城の戦いで奮戦し、その戦功を認められたことで若狭一国の大名へと出世したのです。
ちなみに竜子は淀殿の従姉妹(いとこ)にあたりますし、高次の正室は淀殿の妹である初でした。そうした縁から国松の預け先は京極家しかない。淀殿はそんな風に考えたのでしょう。もちろん竜子は快く応じ、生まれたばかりの国松を大事に育てたそうです。

幕府軍が迫る中、いよいよ父と対面を果たす

国松は7歳まで若狭で暮らしました。そのまま何もなければ普通の子供として過ごしていたのかも知れません。ところが国松に大坂城から使者がやって来るのです。
慶長19年(1614年)、豊臣と徳川の関係が手切れとなり、いよいよ大坂の陣が始まろうとしていました。こうなると国松と奈阿姫の存在を隠しておく必要がありません。おそらく国松を豊臣の後継者と知らしめることで、豊臣軍の結束を図りたかったのでしょう。

こうして国松は大坂城へ召喚され、初めて父・秀頼と対面を果たします。この時に元服して秀勝と名乗っていたとも。父と息子の対面が感動的なシーンだったのか?その詳細は伝わりませんが、国松の存在を知らされていなかった秀頼は心強かったはずです。もし自分に万が一のことがあっても、国松が跡を継いでくれればそれでいい。そんな風に感じていたのではないでしょうか。

こうして大坂城で父・秀頼と対面した国松ですが、名乗ったとされる「秀勝」という名には感慨深いものがあります。実は過去に三人の秀勝がいて、いずれも亡き秀吉と数奇な運命で繋がっていたからです。

一人は秀吉の実子だとされる石松丸(いしまつまる)・秀勝、そしてもう一人は織田信長の息子として生まれ、養子としてもらい受けた於次丸(おつぎまる)・秀勝、最後の一人は秀吉の甥であり、のちに養子となった小吉(こきち)・秀勝です。

いずれも輝かしい将来を約束された人物たちですから、豊臣にとって特別な名前と呼べるもの。国松に対する大きな期待がうかがえますね。

大坂城がついに落城!国松の運命は?


幕府軍と熾烈な戦いを繰り広げた豊臣方ですが、ついに夏の陣では大軍の前に屈します。丸裸にされた大坂城は蹂躙され、多くの武将が討ち死にしていきました。また秀頼と淀殿も紅蓮の炎の中で自害を遂げたのです。
その直前、国松は秀頼と別れの盃を交わしました。親子がともに暮らしたのはたった半年でしたが、まさに断腸の思いだったことでしょう。しかし国松には豊臣の未来を繋ぐという役割が残されています。家臣・田中六郎左衛門と乳母に手を引かれつつ城を脱していました。

淀川から東へ向かった国松たちは伏見で潜伏していました。ところが逃げきれず、ついに発見されて京都所司代のもとへ送られます。
この時、徳川の家臣・井伊直孝は国松をあざけり、辱めようとしたそうです。しかし乳母は毅然として言い放ちました。
「井伊掃部(かもん)殿は、人の作法もご存じないらしい。この国松様は秀吉公の御孫さまです。世が世なら、この若君の盃を頂きたくても頂けないでしょうに」
非道を責められた直孝は恥じ入り、何も言い返せなかったそうです。

さて、国松の身柄は市中を引き回されたうえで六条河原へ送られました。国松は刑場へ着いてから斬首されるまで、立派で毅然とした態度だったそうです。しっかり前を見据え、動揺する素振りもない様子はとても8歳とは思えないほど。
そして首を斬られる直前、国松は口を開くのです。
「秀吉公から受けた恩を忘れ、秀頼公を攻め滅ぼしたおこないは、前代未聞の背信であろう」声を大きくして家康の罪を責めました。そこまで述べると、あとは静かに首を差し出したそうです。

実は国松が生きていたという説があります。それは秀頼とともに薩摩へ逃れ、島津家に匿われたというもの。その後、豊後の木下家を頼るのですが、木下家といえば秀吉の妻・寧々の実家です。国松の居場所として都合が良かったのでしょう。やがて成長した国松は分家を興し、木下延由(のぶよし)と名乗ったのだとか。

なかなか信憑性は薄いのですが、豊臣家の血統を残したい、国松に生きていてほしい。そんな人々の願望があったのかも知れません。

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