宣教師の目指す日本の未来が悲惨すぎる!ザビエルの来日に隠された真


歴史に一つの疑問があります。それは宣教師たちがなぜ危険を冒してまで日本へやって来たのか?です。
単にキリスト教を広めたかったから?それとも貿易がしたかったから?たしかに間違ってはいませんが、それより遥かに大きな目的がありました。それは「日本侵略」です。
「え?キリスト教は民衆を救ってくれる宗教じゃないの?」と思う方も多いはず。いったいどういうことなのか?今回も謎を解き明かしてまいりましょう。

ザビエルが日本を訪れた真の目的とは?

日本が戦国時代の真っただ中にある時、はるか遠いヨーロッパではイエズス会が宗教界の中心を担っていました。積極的に宣教師を世界へ派遣しては布教を広めていったのです
そして日本へ初めて布教にやって来たのがフランシスコ・ザビエルでした。鹿児島や山口、次いで豊後へと布教活動を続け、多くの信者を獲得することに成功します。

ところが彼がやって来た真の目的とは、信者を増やすことでキリスト教国に仕立て上げ、日本をスペイン・ポルトガルの植民地にすることでした。実際にインドのゴアやマニラ、中南米地域などを植民地として支配下に置き、資源収奪や奴隷の確保などを平然とおこなっています。

ザビエルが日本に留まったのは2年ほどですが、彼が残した足跡はしっかりと刻まれ、その後は続々と宣教師が日本を目指しました。果たして日本は植民地になってしまうのでしょうか?

イエズス会が積極的に海外へ進出した理由、それは植民地の獲得もさることながら、ローマ教皇やイエズス会が経済的に苦しんでいたこともあります。ルターから始まった宗教改革後、新しい宗派であるプロテスタントが幅を利かせました。イエズス会がこれまで得ていた多額の献金は目減りし、ついにその糧を海外へ求めるしかなくなったのです。

もし海外で新しい信者が獲得できれば、きっとその国の君主は喜んで献金してくれるだろうと踏みました。そういった意味では、日本へやって来たもう一つの理由は、新しいパトロン探しだったのかも知れません。

信長と出会い、その実力を思い知ったフロイス

来日した宣教師でもっとも有名な人物といえば、ルイス・フロイスですよね。彼もまた布教活動に没頭して多くのキリシタンを獲得した一人です。あわよくば権力者に取り入り、日本をキリスト教の国にしてしまおうという腹積もりがあったのかも知れません。

そしてフロイスが取り入った人物、それは将軍でも天皇でもありません。上洛したばかりの織田信長でした。フロイスは布教を許可してもらういっぽうで、信長の先進的な考えに驚愕し、日本が遅れた国家でないことを確信します。

また日本は100年以上戦い続けており、その兵は世界中のどの軍隊よりも強いと思ったはずです。こうしてフロイスは方針転換の上、日本という国の全てを記録しようと思い立ちました。その成果が彼の残した「日本史」という著作だったのです。

フロイスにどのような意図があったのか図りかねますが、信長の大親友だったことは間違いありません。フロイスの贈り物を素直に喜び、気軽に話しかけ、落成なったばかりの安土城を自ら案内したほどですから。

またフロイスの記録があったからこそ、信長がどんな人物だったのか?また当時の日本がどのような国だったのか?手を取るようにわかるのです。当初は侵略目的でやって来たフロイスですが、次第に日本という国に好意と愛着を持つようになったのでしょう。

九州地方の大名を味方に引き込んだバリニャーノ

フロイスより少し後にやって来たのがバリニャーノです。おそらくフロイスから聞かされていたのでしょう。
「日本は手強い。まずは有力者を味方に付けないと侵略はおぼつかない」と。
そこで狙いを付けたのが九州地方です。肥前の口之津に拠点を置くと、キリスト教の習慣を押し付けるのではなく、日本の文化に自分たちを適応させようと努めました。いわば「郷に入っては郷に従え」という感じですね。

瞬く間に日本人の共感を得たバリニャーノは、大友宗麟・有馬晴信・大村純忠といった並み居る大名と懇意になり、尊敬を受けました。さらに長崎の地を教会領として獲得したのです。
「初めて日本の一部を植民地にしたぞ!」そう喜ぶバリニャーノは、さらなるイベントを大名たちへ提案します。
「ローマへ親善大使を派遣してはいかがですか?」と。これが天正遣欧少年使節となりますが、日本の大名をさらに心服させるには絶好のチャンスでしょう。「これで献金どころか植民地も増えるに違いない」と考えたに違いありません。
こうしてバリニャーノは少年たちとともに意気揚々と旅立ちました。

長崎が教会領となったのは、なにもイエズス会が奪ったわけではありません。領主・大村純忠が「キリスト教のためなら、どうぞ差し上げます」と言ったに過ぎません。ところがこれに「ふざけるな!」と反発した人物がいました。そう、信長の天下を引き継いだ秀吉です。

おそらく秀吉にはわかっていたのでしょう。このままキリシタンが爆発的に増えれば、いずれ国家が転覆させられることに。とはいえ莫大な富が約束された南蛮貿易をこちらから捨てるわけにはいきません。
そこでキリスト教を禁止するのではなく、バテレンいわゆる宣教師は出て行け!と命じたのです。これがキリスト教弾圧の第一歩となりました。

イエズス会の企みがバレた!?サン・フェリペ号事件とは?


イエズス会の暗躍を快く思わない秀吉にとって、とうとう怒りに火を付ける事件が起こります。スペインのサン・フェリペ号という船が土佐へ漂着し、そこで思わぬ事実が発覚したからです。

秀吉は配下の増田長盛を土佐へ派遣し、そこで事情聴取をさせました。ところがスペイン人航海長の態度は尊大そのもので、「スペインは広大な領土を持つ大国だ。小さい日本の比ではない」と毒づきます。
増田が「ではスペインはどのように領土を拡大したのだ?」と問い返すと、航海長は自慢げにとんでもないことを言いました。

「宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服して植民地としている。その土地の民衆をキリスト教徒にした上で内応させ、その国を丸ごと奪うのだ」

増田は呆気に取られました。「そうか、宣教師がわざわざ日本へやって来たのは、このためだったのか」と。
こうしてイエズス会の企みは明るみとなり、事実を知った秀吉は激怒します。すぐさま禁教令が出され、従わぬ者は容赦なく処断されました。この時に宣教師やキリシタンら26人が長崎へ送られて処刑されています。

こうしてザビエルから始まった日本侵略計画は潰え、やがて日本では厳しいキリシタン弾圧が行われるのです。

こうしてイエズス会の野望は打ち砕かれたのですが、まだ終わったわけではありません。徳川と豊臣の決戦となった「大坂の陣」では、キリスト教同士のせめぎ合いが起こっています。

家康つまり江戸幕府を支援するのは、オランダ・イギリスといったプロテスタント、そして豊臣の背中を押していたのがカトリックつまりスペインでした。
オランダ商館長・スペックスは豊富な大砲や火薬を家康に提供して、カトリックの追い落としを図ります。いっぽうカトリック側はキリシタンに動員を掛けて大坂城へ入城させています。この時に陣頭指揮を執ったのがキリシタン武将として有名な明石全登(たけのり)でした。

結果的に豊臣方が破れたことでプロテスタントの勝利に終わりますが、イエズス会の残像はその後も残り続けたようです。島原の乱のとき、原城へ籠城した一揆軍はスペインと繋がっていたとされ、最後まで支援を期待していたとも。
キリスト教が日本へ与えた影響はもちろん大きいのですが、数々の悲劇をもたらした原因もまたキリスト教にあったのです。

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