3人の我が子を殺し、自害した姫!三木城合戦の悲しき話!歴史解説


戦国乱世は男だけが戦ったわけではありません。時には女も甲冑を身に着け、勇ましく敵に立ち向かったといいます。今回ご紹介する別所波は、押し寄せる羽柴の大軍に立ち向かった女性でした。包囲されて滅びゆく三木城、そして彼女と三人の子供たちの運命はいったいどうなるのか?そんな残酷で悲しい物語をご紹介してまいりましょう。

羽柴軍によって包囲された三木城

天正6年(1578年)、東播磨に位置する三木城は数万に及ぶ羽柴軍に囲まれていました。いっぽう城に籠もるのは城主・別所長治はじめ7500ばかりです。その中にひときわ異彩を放つ女武者がいました。彼女の名は波。長治の叔父にあたる別所吉親(よしちか)の妻です。武勇に優れた女偉丈夫として近隣で知られていました。

別所家はもともと羽柴秀吉の誘いを受けて味方となったのですが、毛利家からの誘いもあって秀吉から離反します。そこで三木城へ籠るのですが、援軍があってこそ籠城は成り立つもの。ところが毛利の援軍はいっこうに到着せず、その素振りすらありません。
港から陸揚げした物資を城へ運び入れることで命を繋ぎますが、三木城の将兵たちの士気はだんだん下がっていくのです。

別所家といえば東播磨随一の大名でした。その本拠である三木城は総構(そうがまえ)から成る巨大な城で、秀吉とて簡単に落とせるものではありません。そこで秀吉は包囲しつつ、じっくりと持久戦に持ち込む構えを取りました。

また別所家が離反した理由は、素性のわからない秀吉に大きな不信感を持った点でしょうか。こっちは赤松流の名門なのに、秀吉ときたら成り上がり者です。そんな怪しい者に従えるか!という虚栄心があったのかも知れません。

しかし籠城したとはいえ、毛利の援軍が現れる雰囲気すらありません。いったい三木城はどうなってしまうのでしょうか。

乾坤一擲の奇襲作戦!波の活躍ぶりとは?

籠城してから1年が過ぎようとする頃、南にある魚住の港は抑えられ、北の六甲山北鹿からの補給ルートも遮断されてしまいます。さらに三木城の周囲には羽柴軍の付城(つけじろ)がいくつも築かれ、城中は兵糧不足に陥っていました。いっぽう越後の上杉謙信・丹波の赤井直正が相次いで亡くなったこともあり、織田信忠をはじめとする織田軍主力が三木城へ向かっていたのです。

「このままでは自滅するしかありません」と吉親は進言し、長治に乾坤一擲の作戦を提案しました。状況を打開するため、まだ余裕のあるうちに奇襲を仕掛けようというのです。目標は平井山の秀吉本陣とされました。吉親、そして長治の弟・治定の部隊2500が夜陰に紛れて城を抜け、秀吉の本陣へと接近します。

波も華麗な緋縅(ひおどし)の鎧に身を包み、白葦毛(しろあしげ)の愛馬を駆って吉親の陣に加わりました。
そして合図とともに鬨の声が上がり、波は猛然と攻め掛かります。混乱する羽柴勢は大きく崩れ立ち、逃げ出す兵が相次ぎました。
炎に浮かび上がる波の姿はまるで羅刹のようです。繰りだす槍は凄まじく、屈強な羽柴の兵たちを薙ぎ倒していきました。あまりの強さに攻め掛かる敵もいないという有様だったといいます。

しかし、ただでさえ少ない別所勢の勢いは封じられました。すぐさま援軍が駆け付けて本陣を守ったことにより、別所勢は損害をこうむりながら撤退する他なく、またしても三木城に閉じ込められてしまいました。

戦局挽回を図った別紙勢の逆襲でしたが、あらかじめ対応策を取っていた秀吉によって封じられました。実は別所勢の奇襲を予想していたのは、軍師として秀吉に仕えていた竹中半兵衛だったとされています。
「もし別所勢が攻め掛かるなら、必ず本陣を狙ってくるに違いない」と読み切り、漆黒の闇になる時刻まで把握していたそうですから、まさに恐るべき軍師ですね。

いっぽう別所勢は治定以下800の兵を失い、善戦しつつも次第に孤立無援となっていきました。もはや毛利による救援の見込みはなく、八方塞がりの状態へと追い込まれたのです。

波、最後の奮戦!秀吉が発した言葉とは?

羽柴軍の包囲はいっそう厳しくなる中、三木城の外を守る砦はすべて陥落し、あらゆる補給路は塞がれてしまいました。やがて城内では雑草や壁土すら食べるほどになり、地獄絵図の様相を呈していきます。
もはや落城が避けられないと悟った波は、まだ動けるうちに最後の働きをしようと心に決めました。自慢の強弓(ごうきゅう)で矢を射かけたあと、愛馬にまたがって城外へ飛び出し、槍を振りかざしつつ敵陣へ突っ込んだのです。

「あの女武者がやって来たぞ!」波の豪勇ぶりを知っている敵は慌てて逃げ出し、立ち向かう者はあっという間に槍の餌食となりました。羽柴の陣で武辺者として名高い篠原源八郎(しのはら げんぱちろう)ですら、片腕を切り飛ばされて逃げ出す始末。並み居る敵をバタバタ倒していく波は、もはや返り血で真っ赤に染まっています。それでも突き進んで敵の本陣を目指しました。

波は「羽柴の兵は腑抜けばかりか!誰か相手になる者はおらぬか!」と挑発します。
この言葉を受けた秀吉の家臣たちは怒り狂い、「一気に押し包んで討ち取れ!」と大勢で駆け寄ろうとしました。ところが秀吉はこれを押しとどめたのです。
「たかが女一人ではないか。押し包んで討ち取るものでもあるまい。ここは見逃してやれ」

こうして羽柴の軍勢が下がっていくと、波も城に戻るしかありません。引き返していく彼女の姿を見送った秀吉は「やれやれ、あの女はまるで鬼神のようであるな」と呟いたとも。

こうして波にとって最後の戦いは終わりを迎えました。それにしても彼女の豪勇ぶり、まるで源平合戦の巴御前を彷彿とさせるものですね。それもそのはず、波は河内・紀伊守護を務めた畠山昭高(あきたか)の娘でした。生粋の武家出身ゆえに日頃から武芸の鍛錬を怠らなかったのでしょう。

そのいっぽうで優しい母としての一面も垣間見えます。男子二人と女子一人がいたのですが、戦いで見せる荒々しさは微塵も感じさせず、穏やかで慈愛に満ちた暮らしを送っていたようです。戦う母であり、子を慈しむ母でもあったわけですね。

三木城がついに開城!そのとき波は?


包囲されてから2年が経った天正8年(1580年)1月、ついに別所長治は降伏勧告を受け入れて開城を決意しました。長治は城兵たちの命を救うために自害する道を選んだのです。

最後の酒宴を催したあと、先駆けて自害したのが波でした。3人の子供を次々に刺していくと、刀の切っ先を口に咥えてうつぶせになったままこと切れたのです。まだ28歳という若さでした。
「のちの世の 道も迷は(わ)じ 思ひ(い)子を つれて出でぬる 行く末の空」

我が子が来世に行っても迷わぬよう、母が一緒に連れていきますよ。という意味になるでしょうか。最後まで我が子を思い、来世での行く末を案じていたことがうかがえますね。

もはや涙なしでは語れません。これぞ強き母、これぞ慈愛にあふれた母といったところでしょうか。ただ夫の吉親だけは強情だったようです。自害することを拒んで最後まで抵抗しようとしました。なぜなら吉親は大の織田嫌いで、首を信長に渡すことがどうしても許せなかったようです。しかし最後は家臣によって討たれてしまいました。

また城主である長治も立派だったようです。苦しむ城兵や領民たちを救えるのならと自害を決意し、23歳の若さで散りました。長治が残した辞世の句も涙なしでは語れません。
「「今はただ うらみもあらじ 諸人(もろびと)の いのちにかはる 我身とおもへば 」

今はもう恨むことは何もない。我が身一つで皆の命を救ったのだから。そんな意味になるでしょうか。最悪の戦いと呼ばれた三木合戦には、さまざまな葛藤する人間模様があったわけですね。

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