戦国の悲劇!外交と政略の犠牲となった「お市の方と娘たち」


戦国時代、武家に生まれた女性の立場は弱いものでした。特に大名の妻女ですと自由な恋愛は許されず、外交や政略の道具として他家へ嫁いでいくのが普通だったのです。
今回ご紹介する、織田信長の妹・お市の方とその娘たちも、悲しい運命に翻弄された女性たちでした。それでもたくましく生き続け、歴史にその名を残すことになるのです。

天下を狙う信長のため、進んで浅井家(あざいけ)に嫁いだお市の方

桶狭間の戦いで今川義元を討ち、さらに美濃の斎藤龍を圧倒していた信長にとって、次に狙いを付けたのが京都でした。折しも13代将軍足利義輝の弟・義昭が頼ってきたこともあり、上洛の大義名分はバッチリです。
しかし京都へ向かうルート上には浅井・六角という戦国大名たちがひしめいていました。そこで信長は北近江の浅井長政のもとへ、妹・お市の方を嫁がせて同盟を結ぼうとしたのです。

お市もまんざらではありません。長政は武勇もあって思慮分別に長けた若武者でした。また体格も立派な偉丈夫だったらしく、女性なら誰でも憧れる存在だったようです。まさに美男美女のカップルだったわけですね。

さて浅井家へ輿入れしたお市は、夫から大事にされて仲睦まじく暮らしました。三人の娘にも恵まれて幸せな将来が待っていたはずです。ところが運命とは皮肉なもの。信長の朝倉攻めをきっかけに織田と浅井が敵対関係となり、信長はお市の敵となってしまったのです。

お市が嫁いでから5年後、ついに小谷(おだに)城が包囲されて落城の時を迎えました。最後まで夫と寄り添うつもりだったお市に、長政は静かに諭します。
「市、どうか落ち延びて生きてくれ。そして、私に代わって浅井の血を残してほしい」と。
お市と娘たちは泣く泣く城を落ち、信長の元で保護されました。その後、小谷城は紅蓮の炎に包まれ、浅井長政は壮絶な最期を遂げたのです。

肖像画でも凛とした雰囲気が伝わってきますが、お市の方は尾張でも美貌で知られていたようです。どうやら織田家は美形の血筋だったらしく、他にも「今楊貴妃」と呼ばれたお犬の方、信長の叔母にあたるおつやの方など、絶世の美女とされる方々が生まれていますね。

また夫の浅井長政ですが、織田と敵対してもお市と離縁することなく暮らし続け、最後は妻と娘たちの身を案じつつ見事な最期を遂げました。本当に愛していたからこそ生きていてほしい。そんな思いが伝わってくるようです。

北ノ庄城で夫と運命をともにするお市。そのとき娘たちは?

夫が亡くなったあと、お市と娘たちは信長の弟・信包(のぶかね)に引き取られてひっそりと暮らしていました。ところが、またしても運命の歯車が狂い始めるのです。

天正10年(1582年)、信長・信忠が京都で斃れたことで、織田家を暗雲が取り巻いていきます。明智光秀を討った羽柴秀吉の発言力が増し、宿老・柴田勝家との間で勢力争いが起ころうとしていました。
ちょうどその頃、信長の三男・信孝の勧めもあって、お市は勝家に嫁いでいます。再婚という形でしたが、勝家ならきっと大事にしてくれるはず。そう信じて越前・北ノ庄城へ移り住んでいきました。

ところがその直後、勝家は賤ヶ岳の合戦で秀吉と激突しますが、思わぬ大惨敗を喫してしまうのです。程なくして北ノ庄城は大軍に囲まれ、落城寸前となりました。
勝家は自害を決意し、お市たちに城を落ちるよう命じます。ところがお市は頑なでした。
「いいえ、私はここに残ります。今度こそ愛するお方と寄り添いとうございます」と。
お市はかつての夫・長政と最期を遂げなかったことを後悔したのか?それとも生きていくことに疲れてしまったのか?三人の娘を落ち延びさせる時、こう諭したのではないでしょうか。
「母の分まで、しっかり生きるのですよ。決して挫けてはいけません」と。

こうしてお市は夫・勝家とともに波乱に富んだ生涯を閉じたのです。

ちなみにお市が勝家に嫁ぐことを勧めた信孝ですが、その裏にはこんな事情がありました。勝家はいわば信孝の後ろ盾といえる人物。しかし秀吉に対抗するためには「箔(はく)」というものが必要です。
そこでお市を妻に迎えることで織田の縁者とし、勝家陣営の正当性を示したかったのでしょう。

しかし戦国の世はどこまで非情なのでしょうか。お市と娘たちは一度ならず二度までも落城の悲運に遭ってしまったのです。こうして三人の娘たちは織田家内部の勢力争いに翻弄され、悲しすぎる母との別離を経験したわけですね。

秀吉の側室となり、悲劇的な最期を迎えた茶々

さて、ここからは三人の娘たちがたどった生きざまをご紹介しましょう。まず長女の茶々ですが、母の死から5年後に秀吉の側室となっています。秀吉といえば小谷城で父を自害に追い込みましたし、北ノ庄城でも母を死なせた憎い敵のはず。なぜ側室になることを承諾したのでしょうか?

あくまで推測になりますが、もし秀吉の子を産めば跡継ぎの生母ということになり、彼女は豊臣の家を我が物にできるでしょう。そうすることで父と母の復讐を遂げたかった。そのようにも考えられます。

やがて秀吉が亡くなり、我が子・秀頼が後継者となりました。茶々の望み通り大坂城のおんな主(あるじ)になったのですが、やはり運命は残酷だったようです。最後まで徳川幕府に抵抗したことで大坂の陣を招き、最後は城と運命をともにしました。彼女にとって実に三度目の落城だったのです。

これまで「日本三大悪女」と呼ばれるなど、評価がさんざんな茶々ですが、最近の歴史研究では見直されていますね。通説では「頑迷」「自尊心が高い」「ヒステリー」とされる彼女ですが、それは後世に作られた虚像に過ぎません。

実際の彼女は秀頼をこよなく愛し、豊臣家をひたすら守ろうとしました。実際に大坂の陣直前には「私は江戸で人質になってもいいから、豊臣家を残して欲しい」と願っているほど。かつてのお市と同じく、母としての愛が強かった女性だったのでしょうね。

運命に翻弄されながら、たくましく生きた妹たち


さて次女の初は、姉・茶々より先に京極家に輿入れしています。姉や妹のことを常に気に掛けていたらしく、大坂の陣では豊臣方の使者となって和睦交渉するほど信頼されていました。
ところが必死の奔走も虚しく大坂城は落城し、茶々と秀頼はこの世を去ってしまいます。それでも初には守るべきものがありました。それが秀頼の娘・奈阿姫(なあひめ)です。初は「姫だけは助けてほしい」と必死になって家康に助命を嘆願しました。その姿に家康もとうとう折れ、尼になることを条件に助命したそうです。

三女・江も波乱の運命に翻弄された女性でした。初よりも先に佐治一成(さじ かずなり)という武将に嫁ぐのですが、一成が秀吉の不興を買ったことで離縁させられ、程なくして秀吉の甥・秀勝の元へ輿入れします。夫婦仲は良かったようで、とても幸せな暮らしを送っていた江ですが、朝鮮の役で秀勝が陣没してしまうのです。

それから3年後、秀吉はまたしても江に再婚を命じました。今度は徳川家康の跡継ぎである秀忠に嫁げというのです。悲しい思いしか経験していない江にとって、徳川家に入ることは不安で仕方なかったことでしょう。
ところが秀忠はそんな江を気遣い、暖かい心で包んでくれたのです。江にとって秀忠が最後の、そして最愛の夫となりました。そして二男五女という子宝に恵まれたそうです。

ちなみに三女・江の血筋が、現在の皇室に繋がっていることはご存じでしょうか?彼女は3代将軍・徳川家光を産むのですが、その直系は2代を経て断絶してしまいます。

ところが江には豊臣秀勝との間に生まれた娘・完子(さだこ)がいました。やがて完子は関白となる九条幸家の正室となり、四男三女に恵まれます。そのうち次男・道房の家系が九条節子(さだこ)へ続くのですが、実は大正天皇の皇后となった女性でした。織田・浅井の血統を汲む江の血筋は、なんと現在の皇室まで続いていくのです。なんとも不思議な縁(えにし)を感じますね。

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