【意外な結果】刀狩りの前後の日本、変化しすぎ‼武器だらけ?秀吉の悪法?


天下統一を果たした豊臣秀吉にとって、大きな看板政策が二つありました。それが「検地」と「刀狩り」というものです。特に刀狩りは、庶民から武器を取り上げることで反抗を抑える意図があったとか。
しかし本当に民間から武器がなくなったのでしょうか?武士だけが帯刀する特権を持っていたのでしょうか?今回は「刀狩り」の前と後の世界をひも解いていきたいと思います。

戦国乱世はまさに武器だらけ!?

乱世と呼ばれた戦国時代、一般社会には武器があふれ返っていました。身分の差が曖昧だった時代ですから、武士だけでなく庶民も自衛のために武器を持つことは当たり前だったようです。
また全国各地には名うての刀工たちもたくさんいて、名刀だけでなく「数打ち」と呼ばれる刀が大量生産されていました。庶民でも手に入る価格ですから、皆こぞって帯刀していたのです。

いっぽう農村へ目を向けると、戦いが起こるたびに動員される農兵たちがいました。彼らは自前で槍や弓矢を装備していて、境界争いや水争いをめぐって村同士で戦うこともあったそうです。戦い慣れした農民にとって、刀や槍といった武器は非常に身近な存在だったわけですね。

戦国日本は、今のアメリカもびっくりの武器社会だったといえるでしょう。

武士だけでなく庶民までがなぜ刀を愛したのか?そこには日本人の精神的背景がありました。古来より刀剣は神聖なものであり、信仰の対象になったという点です。
たとえば伝統芸能「出雲神楽」の中で、ヤマタノオロチを倒す場面がありますよね?あれは神聖な剣で悪霊や疫病を払い、無病息災を願う神事に基づくものです。

また戦国時代には、武士だけでなく庶民も元服の儀式をおこなっていました。ある程度の年齢に達すると、脇差を帯びることが大人への通過儀礼となったのです。いわば刀を持つことが誉れであり、一人前と認められる証となったわけですね。

秀吉によって刀狩りが始まる

実は秀吉以前にも刀狩りが行われた例があります。鎌倉時代には時の執権・北条泰時が高野山の僧から武器を取り上げていますし、柴田勝家も越前平定後に寺社を通じて「刀さらえ」と呼ばれる刀狩りを実施しました。
しかし刀狩りを全国規模で推し進めたのは、豊臣秀吉が初めてだったようです。

すでに諸大名には「惣無事令(そうぶじれい)」、庶民には「喧嘩停止令(けんかちょうじれい)」を出して私的な闘争を禁じていた秀吉は、とどめとなる法令を出しました。それが天正16年(1588年)に布告された「刀狩令」です。

「庶民が武器を持っていれば、余計な争いの元となる。だから百姓が刀や槍・鉄砲を持つことを固く禁ずる。もし武器を持って一揆や騒ぎを起こせば、厳しく罰するしかない」
「取り上げた武器は方広寺の大仏、あるいは釘などに再利用しよう。そうすれば百姓たちも救われるのではないか」

こんな感じで庶民を説得し、全国規模で武器が供出されました。提出された刀剣の類は凄まじい数にのぼったといいます。

こうした施策の裏には秀吉の思惑がありました。いくら法令で争いを禁じたところで、日本人の団結力を甘く見てはいけません。かつて秀吉は、強大な武力を持つ一向一揆の恐ろしさに直面していますし、紀州・雑賀衆の激しい抵抗に遭って苦戦した経験もあります。その力の源となる武器を取り上げることで、反抗の芽を摘み取ろうとしたのでしょう。

また刀狩りは別の効果ももたらします。それは農民たちを耕作に専念させることでした。「農民の為すべきは戦うことではなく、収穫高を上げて国を豊かにすることだ」と広く知らしめたわけですね。これは図らずも兵農分離を意味し、秀吉の政策はのちの江戸幕府へと受け継がれていくのです。

刀狩りって、実はザル法だった!?

日本全国から大量の武器が回収されたわけですが、これで「民間にあった刀はすべてなくなったの?」とはなりません。実は刀狩令とは、とんでもないザル法だったのです。

まず武器類を供出する際、役人が村々を回って集めるわけではありません。村落ごとに差し出すのですが、あくまで自主的なものです。また「うちの村にはこれだけありました」といった自己申告制ですから、いくらでも武器を隠せたわけですね。役人もいちいち確認のしようがないため、民間には膨大な武器が残り続けました。

また刀を帯びることは日本人のアイデンティティですから、いくら秀吉の政策だからといって慣習をやめるわけにはいきません。線引きはどんどん曖昧になっていき、庶民が半ば公然と刀を差していても、咎められることはなかったようです。

何より「害獣を駆除したいから」「この刀は神事で使うものだ」といった理由を述べることで、武器の所持は簡単に許可されました。秀吉も武器を完全に取り上げることはできないと思ったはずです。あくまで武力による反抗を防ぐ意識づけだったのでしょう。

刀狩りが徹底的に行われなかったもう一つの理由、それは当時の身分階級にありました。ちなみに江戸時代ですと武士と庶民では身分がはっきり分かれています。ところが戦国時代はかなり曖昧だったようです。
たとえば農村の中には、農民身分でありながら武士でもあるという「地侍(じざむらい)」がいました。また地侍の下には、田畑を耕しながら軍事に従う「郷侍(ごうざむらい)」が存在していたのです。

武士なのか?それとも農民なのか?彼らを区別する線引きは非常にややこしく、だからといって無理に武器を取り上げれば大きな反発を食らうでしょう。そういった理由から黙認してしまう例もたくさんあったそうです。
そう考えれば、刀狩りとは名目に過ぎなかったことがわかりますね。

江戸時代になっても庶民の帯刀は当たり前だった!?

刀狩りという政策は、お題目こそ大きかったものの、庶民から武器を奪うことはできませんでした。それは江戸時代になっても同じことで、幕府はさまざまな統制令を出すいっぽう、庶民が武器を持つことに関して甘い対応に徹しています。

ちなみに時代劇に出てくる町人といえば丸腰の人ばかりですが、実際には町を歩く男性のほとんどが腰に刀を差していました。刀といっても脇差程度ですが、あくまで護身用として許可されたものです。裕福な商人の中には、武士も顔負けの意匠を凝らした脇差を持つ者もいたとか。

さすがに「これはまずい」と考えた幕府は、江戸時代中期と後期に「帯刀禁止令」を出していますが、やはり日本人と刀は切っても切れません。庶民でありながら刀を帯びる者が跡を絶たず、帯刀権も金で買えるようになりました。新選組の近藤勇や土方歳三らが農民出身だったにもかかわらず、堂々と刀を差していたのは、そのためだったのです。

また農村でも害獣駆除の名目で大量の武器が残り続けていました。特に鉄砲は「鳥銃(ちょうじゅう)」と呼ばれ、半ば公然と所持を許されています。
幕府を震撼させた島原の乱で、一揆軍は度重なる幕府軍の攻撃を跳ね返しましたが、その裏には農民たちが大量に持つ鳥銃の存在がありました。一説によれば、原城には数千挺もの鳥銃が持ち込まれたとされ、圧倒的な火力で幕府軍を苦しめたのです。

秀吉による刀狩りには実質的な効果がなく、江戸幕府も武器の所持を黙認したという背景がわかりました。また恐ろしいことに、5代将軍・徳川綱吉の時代に鉄砲改めが行われた際、庶民が持つ鉄砲の数は、幕府・諸藩が持つ数を遥かに凌駕したそうです。

それではなぜ、大量の武器を持つ民衆がお上に反抗しなかったのか?そこには幕府が進めた儒教政策がありました。「目上の者を敬う」「親を大切にする」「人に優しくする」といった秩序を重んじる道徳観念を庶民に植え付けることで、思想によって反抗の芽を摘み取ったのです。今では当たり前になった「日本人の美徳」ですが、謙虚で実直な日本人像が出来上がったのは、そこに理由があったというわけですね。

さて、江戸時代を通じて大量に備蓄された刀ですが、その後、いったいどうなったのでしょう?
終戦直後にGHQが日本へ乗り込んできた際、刀を危ない武器として一斉回収しました。その時に集められた刀剣類は実に500万振りに及んだのだとか。
当時の世帯数が1500万世帯ですから、実に3軒に1軒の割合で刀を所持していたことになります。ほんの75年前まで武器社会が続いていたわけですね。

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