【悲惨】信長死後の織田家の3人の息子!天下統一から滅亡まで転落?


天正10年(1582年)、紅蓮の炎に包まれる本能寺で織田信長は亡くなりました。その後は皆さまもご存じの通り、羽柴秀吉が天下人への道を駆け上ったわけですが、信長と時を同じくして亡くなった嫡男・信忠意外にも息子や血縁者はいたはず…
その方たちはいったいどんな運命をたどったのでしょうか?今回は「信長死後の織田家」と題し、掘り下げてみたいと思います。

強い恨みを残してこの世を去った信長の三男・織田信孝

信長の死後、勢いを増していく秀吉に対抗したのが三男・信孝です。織田家宿老・柴田勝家と結んで反秀吉陣営を結集しますが、秀吉の方が一枚も二枚も上手でした。信孝と反目する次男・信雄を取り込み、兄弟間の軋轢をうまく利用したのです。

天正10年(1582年)12月、機先を制するように秀吉は大軍を率いて信孝の岐阜城を囲みます。季節は折しも冬。越前の勝家が出て来られないことを見越しての行動でした。
こうなると致し方ありません。信孝は母と娘を人質に差し出して和睦を受け入れたのです。

ところが信孝に大きなチャンスがめぐってきます。翌年、勝家の出陣を知った信孝は呼応して兵を挙げました。岐阜城に籠もって抵抗を続けますが、頼みの勝家が賤ヶ岳の戦いで敗北。とうとう織田信雄の軍勢に囲まれた信孝は観念するしかありません。

信孝の身柄は尾張へ移され、野間(のま)の大御堂寺(おおみどうじ)で軟禁されました。付き従う者はわずか27名だったとも。まもなく自刃を申し渡され、26歳の若さでこの世を去りました。

信孝は気骨があり、器量も併せ持った人物だったといいます。そんな信孝だったからこそ、織田家を乗っ取ろうとする秀吉の意図が見えていたのでしょう。
しかし戦いは時の運。敗れた信孝は強い恨みを残しつつ亡くなったとか。実は兄・信雄ではなく秀吉を恨んだといいますから、やはり真の敵は秀吉だと考えていたはずです。信孝が遺したという辞世の句がございます。

「昔より 主(しゅう)を内海(うつみ)の野間なれば、報(むく)いを待てや羽柴筑前」

豊臣家のあっけない滅亡は、もしかすると信孝の呪いが絡んでいたのかも知れませんね。

ワガママのおかげで全てを失った男・織田信雄

さて首尾よく信孝を滅ぼした次男・信雄ですが、まんまと三法師の後見人に収まりました。三法師とは亡き信忠の嫡子で、名目上の織田家当主です。ところが秀吉が次の標的として選んだのが信雄でした。
秀吉はわざと信雄をないがしろにする態度を見せつけ、重要な決定事項すら信雄抜きで進めようとします。当の信雄はどんどん不満を溜めていき、ついに徳川家康と結んで対抗姿勢を明らかにしました。

天正12年(1584年)、ついに両陣営がぶつかって小牧の役が勃発。ところが家康の頑張りもあって戦況は膠着状態となります。背後に敵を抱える秀吉にとって、早く決着を付けて撤収したいところでした。
そこで秀吉は信雄の領国・伊勢へ別動隊を送って攻め立て、ついに音を上げた信雄は単独講和に応じ、秀吉の軍門に下りました。

秀吉の天下は揺るぎないと悟った信雄はその後、豊臣政権の重鎮として存在感を表わしていきます。ところがプライドの高い彼にとって、ワガママが身を滅ぼしてしまうのです。
天正18年(1590年)に北条氏が滅亡すると、家康が関東へ移封されました。そして信雄には家康の旧領へ移るよう命令が下ります。

しかし信雄はこれを拒否しました。彼が持つ尾張は父祖以来の領地ですし、織田家の人間がホイホイ命令に従うことはプライドが許しません。
こうなると秀吉にも天下人としての意地があります。怒りの態度をあらわにし、信雄の所領を没収したうえで下野国へ流罪に処したのです。哀れ信雄はワガママのおかげで全てを失ってしまいました。

小牧の役の際、信雄は家康を差し置いて単独で講和を結んでしまったのですが、これにはウラがありました。確かに信雄は伊勢を攻められて苦境に陥っていたものの、秀吉はムチだけでなくアメも用意していたのです。
それは信雄に示された好条件でした。

・領地の割譲
・大納言への任官
・信雄を織田家の正式な跡目とする

特に3つ目の条件は信雄の心を動かしました。名目上は三法師が当主だったわけですが、これを廃して信雄を当主にするというものです。自尊心が高く単純な信雄にとって、応じない理由はありません。こうして秀吉の手のひらで踊らされたわけですね。

悲惨な運命をたどった織田の嫡流・織田秀信

秀吉の命令で一時は当主を剥奪された三法師ですが、思わぬ信雄の失態によって、再び当主の座が転がり込んできました。やがて三法師は元服して秀信と名乗り、岐阜城13万石の大名となります。また「岐阜中納言」と呼ばれて諸大名の尊敬を集めていたとか。

ところが慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いが、秀信の運命を決めました。石田三成の甘い言葉に乗って西軍に味方しますが、運が悪いことに岐阜城は両軍の最前線となってしまったのです。
味方の援軍がない中で東軍の猛攻を受け、あっけなく岐阜城は落城。降伏した秀信は高野山へ送られて蟄居を命じられます。

そして最後まで許しが出ないまま、26歳の生涯を閉じました。奇しくも父・信忠と同じ享年だったとも。数奇な運命に翻弄された秀信は、およそ信長の孫らしくない最期を迎えたのです。

戦いに敗れたのち、高野山へ向かった秀信ですが、そこには厳しい現実が待ち構えていました。高野山は本来、罪人であっても受け入れ、功徳(くどく)を積んで罪が消えるという聖地ですが、高野山は秀信の受け入れに難色を示したのです。

なぜなら秀信の祖父・信長は、かつて高野山を目の敵にし、高野聖(こうやひじり)3千人を処刑する悪魔の所業に及んでいたからです。その恨みが消えないまま秀信を入山させるわけにはいきません。
秀信は高野山を追い出されて麓の村で暮らし、そこで寂しく亡くなったそうです。ちなみに村娘との間に男子がいたそうですが、その家系は代々農民として暮らしたとも。

織田家は滅亡したわけじゃない!大名として存続した家系とは?

嫡流である織田秀信が亡くなったことで織田家は滅びたのか?となると、話は少し違います。実は信長には弟や息子が数多くいて、そのうちの一部が大名として江戸時代を生き抜いているのです。

まず信長には10人の弟がいましたが、そのほとんどは厳しい戦国の世で命を落としています。しかし信包(のぶかね)と有楽斎(長益)の二人は生き延び、信包系は丹波柏原(かいばら)藩、そして有楽斎系は戒重(かいじゅう)藩と柳本(やなぎもと)藩として続きました。

いっぽう信長の息子たちですが、大名として続いたのは次男・信雄の系統だけです。秀吉の勘気を蒙って一時は流罪となった信雄ですが、のちに赦免されて小大名として復活しています。また大坂の陣では徳川の間者として情報を流したこともあり、加増を受けて宇陀松山藩の藩祖となりました。
こうして信長から続く係累を幕末まで保ったのです。

信長には信忠・信雄・信孝の他に、9人の息子がいました。もし信長が生きていれば、いずれも大名として繁栄していたはずですが、運命とはまさに皮肉なもの。本能寺の変が織田一族の運命を変えてしまったのです。

豊臣政権下では織田一族の出世など到底望めず、信長の息子たちは日陰の存在となりました。ところが関ヶ原の戦いが、運命をまたしても変転させるのです。「この戦いで活躍すれば大名になれるはず!」と息子たちは期待に胸を膨らませて奮起しました。
七男・信高、八男・信吉、九男・信貞、十一男・長次らは西軍に味方し、織田家再興の願いを込めて必死で戦います。ところが利あらず長次は討ち死に、他の兄弟たちも相次いで改易となり、ついに再興の夢は露と消えたのです。

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