【日本最大のミステリー】本能寺の変に隠された陰謀!明智光秀の綿密な計画と信長の大失敗?


逆臣となった明智光秀が、主君・織田信長を襲撃した大事件・それが天正10年(1582年)に起こった本能寺の変です。謀反の理由については様々な説があるものの、なぜ光秀はこうもうまく襲撃に成功できたのでしょう?そこには光秀だからこそ為しえた秘密がありました。今回はその謎を追っていくことに致しましょう。

光秀だからこそ京都の情勢を把握できた?

光秀は美濃の出身ですが、信長の上洛直後から京都奉行に任じられたり、多くの公家たちと交流を持つなど京都の事情に精通していたと思われます。また近江坂本や丹波地方といった京都の東西を抑える要地を所領としていました。つまり光秀は京都中に情報網を張り巡らせていて、信長や嫡男・信忠の動きを逐一把握していたということになります。

もちろん何月何日に安土を発ってどこへ向かうとか、引き連れている供が何人いるかなど全て把握していたことでしょう。織田の諸将は各地で戦っていますから、畿内が空白地帯になっていることはわかっています。あとはどこで?いつ?襲撃するかの問題だけでした。

光秀が主君・信長の動きをうかがいながら好機を探っていたことは、その足取りからもわかります。光秀が家康の饗応役を免じられたのが5月17日のこと、そのまま中国地方への出陣を命じられるのですが、なぜか光秀は10日近く坂本城を離れていません。

信長が安土を発って京都へ向かうという情報が入ったためでしょうか?信長が発つ2日前になってようやく坂本を出て丹波へ向かうのです。すでに軍勢の集結も終わっていた明智軍ですが、まだ出陣の素振りはありません。光秀は愛宕権現に参拝したり、連歌会(れんがえ)を催すなど時間稼ぎに終始していました。おそらく信長が京都へ入る時を待っていたものと思われます。

そして信長が本能寺へ入ったのが5月29日のこと。わずか数日の滞在のみで淡路へ向かうという情報も得ていました。「殺るなら今しかない!」と光秀は謀反を決意したのでしょう。

将軍・足利義昭が帰還するチャンスを狙っていた!?

光秀の動機について、最近は「四国説」という説が有力になりつつありますが、四国の長宗我部元親との取次を務めていた光秀にとって、信長の「長宗我部を滅ぼす」という方針転換はメンツを潰すに十分でした。しかし、それだけでは謀反の動機として弱すぎます。

当時の情勢は、ともに織田の圧迫を受けつつあった毛利と長宗我部が同盟関係となり、その仲介をしたのが、毛利の保護を受けていた将軍・足利義昭だとされています。束になって織田と当たれば戦況を有利にできると考えたのでしょう。
しかしまだ不十分です。そこで重要なピースとなったのが光秀でした。密かに義昭と連絡を取り合い、信長を討った暁には義昭を京都へ迎え入れて幕府の復権を果たす。そんな目的があった可能性があります。

それを示す史料もあります。それが「土橋重治宛(つちはし しげはるあて)光秀書状」というもの。
本能寺の変後、有力な雑賀衆・土橋氏を味方に付けるため光秀が自ら書いた書状で、そこには足利義昭を京都へ帰還させて幕府を再興したいという意気込みが綴られています。
しかし光秀の願望も虚しく、羽柴秀吉の迅速果敢な中国大返しによって夢は幻に終わってしまうのです。

実はもう一つ、明智・毛利・足利義昭が結託して信長を滅ぼしたという証拠があります。それが毛利家臣の記した「身自鏡(みのかがみ)」という記録です。
備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は、毛利の外交僧・安国寺恵瓊を前にこう言ってのけました。
「毛利の謀(はかりごと)が深かったために、上様がお果てになられた」と。

なぜ秀吉が知っているのかは謎ですが、やはり相当な情報網を持っていたのでしょう。毛利と義昭が結託して光秀をそそのかし、信長を自害へ追い込んだのだと看破してみせたのです。
これに肝を潰した恵瓊が和平交渉を進めたことで、和睦がすんなり締結され、秀吉は明智討伐へ向かうことになりました。

周到な行軍計画と、綿密な時間調整

さて信長を討つと決心した光秀ですが。率いていたのは1万3千もの大軍でした。6月1日の夕刻には勢ぞろいさせていましたが、丹波から京都へ向かうには最短ルートとして山越えをしなければなりません。おそらく軍列は長く伸び切り、全軍が京都へ集結する頃には信長も逃げ出しているかも知れません。

そこで光秀は周到な行軍計画を立てるのです。まず本軍には「これから山崎を通って摂津へ出る」という名目で進軍させ、さらに別動隊を編成したうえで唐櫃(からと)越えという山ルートを取らせました。これは軍勢を2つに分けることで、移動を効率的にするためです。
山越え部隊が全速で京都へ向かういっぽう、本軍は山崎に近い沓掛まで来たところで向きを東へ変えて京都を目指しました。

また光秀は時間調整も綿密に計画したものと思われます。これだけの軍勢が行軍すれば、何時頃に京都へ着けるのか?すべて頭の中でシミュレーションは出来上がっていたはずです。
ちょうど人々が寝静まる時刻に桂川を渡り、京都近郊へ達したのが早朝のこと。季節は夏ですから、本能寺へ到着する頃にはすっかり明るくなっていました。
山越えしてきた部隊が先にやって来て、すでに本能寺を包囲していたかも知れません。

ところで本能寺の変は、真夜中に明智軍が攻めてきたところで信長が目を覚ます。そんなイメージが強いですよね。ところが実際には早起きだった信長はとっくに目を覚ましていて、宣教師の記録によれば顔を洗ったり体を拭いたりしていたそうです。

周到な計画で本能寺を囲んだ明智軍ですが、急行軍だったゆえに余裕はなかったようです。ひたすら本能寺を目指したことで兵の配置は中途半端に終わり、京都の西の関門にあたる粟田口に兵を配することもできませんでした。信長父子がもし直前に気付いて入れば逃げ出すことも可能だったのです。

また本能寺を襲撃した時、信長の嫡男・信忠がいる妙覚寺にすら手が回っていない有様ですから、たとえ信長が討たれても、信忠に逃げる決心があれば十分に時間的余裕はあったはずです。
しかし信忠は逃げることを良しとせず、明智軍へ勇敢に立ち向かったあげく見事な最期を遂げました。

光秀の徹底した秘密工作

謀反の直前、光秀は情報漏洩を恐れて秘密工作に躍起となっています。明智秀満や藤田伝吾ら重臣たちに決して裏切らないという起請文を提出させ、それぞれから人実を確保しました。さらに兵糧や弾薬を積んだ荷駄隊を先に西へ出発させて、これから山陰地方へ向かうという欺瞞耕作をおこないます。

また兵たちに疑心を抱かせぬよう、「これから軍装を上様にご覧いただく」と称して京都へ向かったとされています。何せ明智軍の進軍が露見すれば大変なことです。馬の沓(くつ)を捨てさせ、足軽には音がしないよう足半(あしなか)の草鞋に履き替えるよう指示。さらに火縄を短く切って火を付け、5本ずつ下げることも命じました。かなり用意周到だったことがうかがえますね。

本能寺へ向かう兵たちの心情はどんなものだったのでしょう?それを表す「本城惣右衛門覚書(ほんじょうそうえもん おぼえがき)」という史料があります。これは当時、実際に明智軍に加わった武士の回想録ですが、その中にこんな記述が登場します。

「家康様が上洛されていたので、てっきり家康様を討つのだと思っていた」
当初、惣右衛門は中国地方で戦う羽柴秀吉の援軍として赴くものだと思っていました。ところが急に進路変更したことで、信長ではなく家康を討つものと勘違いしたのでしょう。
あるいは軍勢の中に、「信長を討つのではない。家康を討つのだ」とわざと吹聴した者がいたのかも知れません。

いずれにしても行軍中に信長を討つとわかれば、急いで注進に及ぶ者が出る可能性もあります。直前まで真の目的は伏せておきたい。そんな意図が見え隠れするのです。

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