【学校では教えてくれない】超意外な戦国時代の常識と風習!


現在と戦国時代とでは、モノの考え方や価値観がまったく異なります。何せ400年以上の隔たりがありますから当然といえば当然ですよね。そこで今回は、「今では信じられない戦国時代の常識」と題し、戦国乱世の人々の常識や暮らしぶりについて紹介したいと思います。

戦国時代は誰でも字が読めて書けていた!?

江戸時代には寺子屋の普及によって日本人の識字率は飛躍的に向上した。とされていますが、それは大きな間違いです。実はそれ以前から日本人は字も読めるし、自分で書くこともできたのです。

布教で鹿児島を訪れた宣教師フランシスコ・ザビエルはこう記録しています。
「日本は布教するのに最も難しい国だと言わざるを得ない。民度が高くて男も女もほとんど読み書きを知っている。また道徳もあって礼儀正しい」
いわば日本人の教育水準の高さに驚いているのです。また和歌や漢詩が詠めるほど文化水準も高かったといいます。京都から遠く離れた鹿児島でそんなレベルですから、畿内では識字率がさらに高かったことでしょう。

ちなみに明治初期、欧米など先進諸国の識字率はわずか20%程度に過ぎません。日本では戦国時代から江戸時代を通じて誰もが読み書きできるとされ、世界に冠たる教育立国だったのは疑いないところですね。

なぜ誰もが教育を受けることができたのか?その秘密は寺院にあります。実は地域ごとにあった寺が読み書きの教育を担っていました。
例えば興福寺多聞院にいた僧の日記によると、奈良の子供たちが読み書きを習うため、周辺の寺に預けられていたといいます。また中には女子もいて、尼僧が字を教えていたとも。
また近くに寺がない地域でも心配ありません。旅の僧が村々へ立ち寄った際、一宿一飯の恩義として子供たちに読み書きを教えていたとか。

このように寺院を中心とした草の根的な運動によって、日本人の教育レベルは驚くべき域に達していたのです。

全国へ広まった寺院での教育ですが、教え方にもひと工夫ありました。子供たちを飽きさせないように、そして楽しんで学べるよう「いろは歌」が広く用いられたといいます。皆さんが良く知る「いろはにほへと」のことですが、これは異なる音の仮名を集めて歌にしたものです。そうすることで意味を理解しつつ、楽しみながら学べたのでしょう。

また教材にも事欠きません。説話をまとめた「御伽草子」や「平家物語」などは、耳で聞く文芸として広く普及しました。また村々では能や神楽といった芸能も頻繁に開催されていますから、日本人は子供の頃から高い文化に触れていたのでしょうね。

戦国乱世は性に奔放な時代だった!?

この時代の人々は、簡単に言えばあまり羞恥心は持たなかったようです。性に対する道徳観が生まれるのは江戸時代以降のことですから、かなり自由な性生活を送っていた感じでしょうか。

例えば、男性が気に入った女性の寝床を訪ねる「夜這い」はもちろん、逆に女性が男性に誘いをかける「妻問い」という風習も盛んだったそうです。また村祭りなど大きな行事が催された時には、そこらじゅうで若い男女が性欲を発散していたとも。
そんな様子を見た宣教師ルイス・フロイスは、こう記しています。
「日本の女性はあまり純潔を重んじないようだ」と。

それにしても、なぜ日本人はこんなにも性に奔放だったのか?それは古来から伝わる宗教観にありました。
月経や出産などは女性特有のもので、血は「穢れ」とされています。穢れとは清浄ではない状態のことを指しますが、いわば不幸や死は「穢れ」があるから起こるものと解釈されました。
それではどうやって穢れを払うのか?実は「お祭り」が大きく関係しています。戦国時代のお祭りは民衆にとって特別であり日常的なものでした。もちろん五穀豊穣や無病息災を祈願するものですが、穢れを払う儀式でもあったのです。

お祭りを通して女性は穢れた存在でなくなり、ここでようやく妊娠や出産という「生」の象徴へと向かいます。お祭りの時になぜ男女が仲良くなるのか?そこに大きな理由がありました。ちなみに江戸時代に詠まれた「社前より裏がにぎわう村祭り」という川柳がありますが、地域社会で男女の営みが黙認されていた証拠でしょう。

戦国時代の性が開けっぴろげだった理由、実はもう一つあります。それは乳幼児の死亡率の高さでした。現在のように医療が進んだ社会ではありませんし、子供が生まれたとしても成長できる保証はありません。
そのため「産めよ増やせよ」が社会を維持する唯一の方法となりました。もし子供の出生率が低下すれば、その地域の生産効率は低くなり、たちまち社会は崩壊してしまうでしょう。

とはいえどれだけ頑張っても、一世帯で生まれる子供には限りがあります。ではいったいどうするのか?その解決策は同じ村の男たちと交わることでした。浮気だ不倫だといっても関係ありません。子供が生まれること自体に意味があったのです。
もし私生児であっても差別されることはなく、「村の子」として大切に育てられたとも。父親が誰かわかっている場合でも「祭りの子」として認めていたそうです。

合戦が終われば稼ぎ時!?戦場は宝の山だった

戦国時代は戦いが日常だったわけですが、庶民といえども殺されたり、家財を奪われたり、多くの悲劇に見舞われています。しかし裏を返せば庶民の稼ぎ時でもあったのです。その舞台となったのが戦場でした。
特に激しい戦いがあった場所ほど、色々なものが落ちています。将兵の遺骸だの、刀や槍だの、食べ物などが散乱していました。

近隣の村々から人々がやって来ますが、その目的は様々です。将兵の身ぐるみを剥がして鎧兜を奪ったり、あるいは立派な槍を手に入れて持ち帰ったりなど。もちろん、それらは全てお金になります。すでに専門の商人がやって来ており、値を付けては買い取っていきました。

また首専門で戦場へやって来る者もいます。精悍な顔立ちの遺体を見つけるとキレイに拭いて整え、さらにお歯黒を塗ったりなど。そして別で手に入れた立派な兜を被せれば、「良き大将」の出来上がりです。これをお城へ持って行き、「どこそこで討ち取った佐藤淡路守の首でございます」と申し出れば報奨金がもらえました。ただしウソがばれれば首が飛びますから、かなり命がけです。

さらに戦場では主を失くした馬がさまよっていることもありました。立派な馬なら高値で売れますし、駄馬であっても農耕馬として働けます。時として馬をめぐって争いとなり、刃傷沙汰に及ぶこともあったとか。

ところで庶民にとって稼げる場面といえば、やはり戦場の後始末でしょうか。遺体などは放置しておくと大変ですから、領主が賃金を与えてまで掃除させるのです。遺体はまとめて土に埋めて塚を作り、近在の住持を呼んで供養させました。また合戦で荒らされた田畑はしばらく使い物になりませんから、領主が補償して金品を渡したり、年貢を免除するケースもあったようです。

激戦となった関ヶ原の戦いでも、戦場の後始末は大きな問題となります。そこで徳川家康は当地の領主・竹中重門に命じ、遺体の埋葬と供養をさせました。この時、見舞金として1千石を重門に与えたそうです。
また戦場になった村々が後始末を担当したのですが、この時には8千に及ぶ死者を埋葬したとも。現在でも東首塚と西首塚として現存しています。

とかく悲惨なことが目に付く戦国乱世ですが、庶民たちは逆境を跳ね除けつつ今日を生きていきました。まさにたくましさを感じずにはいられませんね。

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