【光と闇】家康と11人の息子達、光と闇!処刑、厄介払い、波乱の人生!


戦国最後の覇者として天下人へ昇りつめた徳川家康ですが、律儀な人格者であったことは皆さんもご存じかも知れません。ところが息子たちに対して子煩悩だったかと思いきや、まったく別の顔を見せているのです。それは愛する息子への厳しさではなく、もはや冷徹と表現してもいいほど。
今回は家康の息子たちの光と闇に焦点を当て、彼らがどんな扱いを受けたのか?ご紹介してまいりましょう。

父から自害を命じられた悲劇の御曹司
「嫡男・松平信康」

家康の嫡男として生まれたのが信康です。織田との同盟の証として徳姫を妻に迎え、おおいに将来を期待された御曹司でした。ところが考え方をめぐって父・家康と対立してしまうのです。
遠江まで勢力を拡大した徳川家は、家康が浜松に、そして信康が岡崎に本拠を構えて二頭政治を敷いていました。ところが信康の直臣である岡崎衆の間で不満が起こり始めます。当時の徳川家は甲斐の武田家と戦っていて、いつも手柄を挙げるのは浜松衆ばかり。岡崎衆といえば後方支援や輸送業務といった地味な仕事を与えられています。「浜松衆だけ優遇されて、岡崎衆は日陰者ではないか」そんな声が高まり、信康も抑えることができません。

また信康は、織田との同盟に大きな疑念を抱いています。当初はあくまで対等な同盟だったはず。それなのに今や家康は信長の家臣扱いも同然。このまま織田と組み続けても将来はないのでは?そんな考えが頭をもたげてきます。そういったことから徳姫との仲も疎遠になっていき、ついに謀反へ踏み切ってしまうのです。

しかし徳姫が父・信長へ送った密書によって謀反計画は露見しました。信長は処断を家康に委ね、ついに信康は自害を命じられ、母・築山殿も加担したとして暗殺されるのです。親子がもっと身近に言葉を交わしていたなら、このような悲劇はなかったかも知れません。

結果的に自害を命じた家康ですが、最後の最後まで迷っていたようです。岡崎城から大浜、さらに堀江から二俣へと身柄を転々と移し、信康の翻意と謝罪を待ったのかも知れません。しかし信康が考えを変えることはなく、21年という短い生涯を終えました。

こうした親子の相剋は江戸幕府が成立してからも大きな影響を与え、「神君に逆らった謀反人」として信康に徳川姓が与えられることはありませんでした。なぜ家康の嫡男なのに「松平」となっているのか?そこに理由があったわけです。

次男なのに家督を継げなかった!?とことん家康に嫌われた息子
「次男・結城秀康」

さて次男として生まれたのが結城秀康ですが、信康が亡くなって家督が継げるのかと思いきや、そんなチャンスは巡ってきませんでした。その理由は秀康の生まれにあります。母は築山殿に仕える侍女でお万といい、低い身分の出身でした。築山殿の手前もあって、秀康が生まれても家康は会おうともせず、何より嫌ったのがその容貌です。魚のギギに似ていたから於義伊(おぎい)という幼名を付けたほど醜かったようで、まったく愛着が湧いてこなかったのでしょう。

しかし兄・信康の取り成しのおかげで、ようやく父と対面を果たした秀康ですが、やはり家康の態度は素っ気ないものだったようです。また信康が自害したのち、徳川の跡継ぎ問題が持ち上がると、次男・秀康を飛び越して三男・長丸(ちょうまる)を後継者として指名しました。さらに豊臣秀吉に臣従した家康は、秀康を人質として大坂城へ送り付けます。体の良い厄介払いといった感じでしょうか。

その後、秀康は豊臣家の猶子になりますが、さらに北関東の結城家へ養子に出されています。これではまるで都合の良い道具扱いでしょう。それでも秀康は不運な境遇に甘んじました。
そして秀吉の死後、いよいよ関ヶ原の戦いが始まります。西軍挙兵の知らせを受けた家康は、軍勢を西へ反転させ、三男・秀忠に別動隊の大将を命じました。ところが秀康には「動くな」と指示したのです。あくまで上杉軍の抑えとしての役割ですが、それは天下分け目の戦いに参加できないことも意味します。
家康はこの段階になってもなお秀康を嫌い、主役にさせたくなかったのでしょう。秀康はどうしようもない無念さを噛み締めたに違いありません。

やがて秀康は梅毒を患い、34歳の若さでこの世を去ります。父に疎まれ、翻弄され続けた人生でした。

数多い家康の息子の中でも、秀康はとりわけ体が大きく、武勇に秀でていたといいます。しかし九州攻めで初陣を果たすものの、ほとんど戦いらしい戦いには参加していません。
だからこそ会津攻めから関ヶ原へ至る流れの中で、「今度こそ必ず戦功を挙げてみせる」と決意したのかも知れません。

ところが秀康にとうとう活躍の場は与えられませんでした。東軍勝利の陰で縁の下の力持ちに徹し、最後まで戦場を疾駆することはなかったのです。その無念さは察するに余りあります。
さて秀康はその晩年まで「徳川」に愛着を持ち、せめて「松平」だけでも名乗りたいという思いがあったとか。しかし秀康が生きているうちに実現せず、ようやく息子・忠直の代になって松平と改姓できたそうです。

偉大な父を持った後継者の苦労とは?
「三男・徳川秀忠」

信康死後に、徳川の実質的な後継者になったのが徳川秀忠です。母・西郷局(さいごうのつぼね)は土岐源氏の流れを汲む家柄ですから、徳川家を継ぐには申し分ありません。しかし家康の過度な期待は秀忠を苦しめることになります。

小田原の役や朝鮮出兵に秀忠が出陣することはなく、関ヶ原の戦いが実質的な初陣となりました。秀忠としても次期徳川家当主として目覚ましい戦功を挙げ、存在感を現わしたい思いがあったことでしょう。
ところが中山道を進む秀忠軍の前に立ちはだかったのが、上田城の真田昌幸です。昌幸が繰り出す策謀の前に徳川軍は翻弄され、ここで大きな足止めを食らってしまいます。結局、城を落とすこともできずに関ヶ原の戦場へ駆けつけようとするのですが、もはや間に合うどころではありません。大遅刻という前代まれに見る大失態を冒してしまいました。

戦いの経験がない秀忠を総大将に命じた家康も悪いのですが、将来を期待しただけに失望は大きかったようです。
秀忠が到着しても顔すら合わせず、そそくさと陣を引き払っていきました。こうして「秀忠は凡庸で戦いに弱い」というイメージが付いてしまったのです。

これまでの秀忠像は、目立たずおとなしく、無能ではないが平凡に過ぎないという印象でした。しかし歴史の再評価が進むとともに、戦いが終わった時代だからこそ秀忠が才能を発揮できた。そんな見方が生まれたのです。
慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれますが、家康はわずか2年で辞して、2代将軍として秀忠が就任しました。家康は大御所としてなお権勢を振るいますが、江戸にいる秀忠もまた優れた政治力を発揮しています。

江戸を中心に譜代大名をまとめ上げ、土井利勝や酒井忠世といった優秀なブレーンを側に置いて幕府政治の基礎を固めました。「戦いが終わった今、優れた政治こそが世を動かす」そのような考えから人材登用を積極的に進めていったのでしょう。そう、秀忠は平和な世だからこそ力を発揮できたのです。

父や兄の機嫌を損ねて改易に!92年も生きた波乱の生涯とは?
「六男・松平忠輝」

家康の六男として生まれた忠輝ですが、この人もまた父から嫌われた人物でした。家康という人は、たとえ自分の子であっても容貌が醜いと邪険にしたがる性分だったようです。生まれたばかりの忠輝も例に漏れず、家康はその顔を見た瞬間に「まるで鬼の子じゃ。捨てて参れ!」と命じたとか。
とはいえ本当に捨てるわけにもいきません。家臣・皆川広照(ひろてる)によって育てられたといいます。

忠輝が元服を迎えたのは、家康が天下を手に入れた直後でした。その後は徳川一門として優遇され、若くして越後高田75万石の藩主に就任しています。また伊達政宗の娘を正室として迎えるなど、忠輝の将来は約束されたようなものでした。

ところが忠輝は性格にかなり難があったようで、次々にしくじりを冒してしまうのです。大坂夏の陣へ参陣するため近江へ差し掛かったところ、兄・秀忠の旗本が追い越してしまいます。忠輝はこれに激怒して旗本を無礼討ちにしました。これには秀忠も腹を立て、厳しく叱責したとも。
また肝心の合戦では総大将を命じられたのですが、戦いが終わった頃にようやく駆け付け、さらに敗走していく豊臣軍を追撃すらしない体たらく。翌日の戦闘でもはかばかしい戦果を挙げられないまま大坂の陣は終わってしまいました。

家康は忠輝の働きぶりに失望し、厳しい処断を決意します。「越後高田を没収し、蟄居を命じる」と。諸大名の手前、甘い顔はできなかったのでしょう。一門の重責が果たせないなら息子であっても容赦しない。それが家康のやり方でした。
忠輝は家康が亡くなった時も面会を許されず、兄・秀忠からも厳しい処罰を受けてしまいます。伊勢から飛騨高山、さらには信州へと身柄を移され、流人同然の暮らしを送りました。そして歴史の表舞台から姿を消したまま、92歳という高齢まで長生きしたそうです。

忠輝も決して凡庸な人物ではありませんでした。日頃から武芸に勤しみ、優秀な家臣団を抱えていたそうですから、その気になれば大坂の陣でも活躍できたはず。ではなぜ手を抜いたような戦いしかできなかったのでしょう?
それは忠輝がキリスト教に理解があったからに他なりません。妻の五郎八(いろは)姫も敬虔なキリシタンですから、いつかは伊達政宗と組んで海外貿易に乗り出そうとしていたほど。

ところが大坂の陣の際、大坂城には数多くのキリシタンたちが籠城していたといいます。「この者たちと戦いたくない」そんな思いが忠輝の心に去来したのかも知れません。
また慶長10年(1605年)には父の代理として上洛し、豊臣秀頼との親交を深めたとされています。まるで弟のような秀頼を殺したくない。そんな気持ちもあったことでしょう。優しすぎた性格が忠輝に災いした。そんな風に解釈もできますね。

若くして亡くなった家康の息子たち
「四男・松平忠吉」「五男・武田信吉」「七男・松平松千代」「八男・松平仙千代」

幼児死亡率が高い戦国時代、子供が多ければ多いほど家を残す可能性が高くなります。家康もそれにならって11人の息子たちを産ませたわけですが、それでも4人の男子が若くして亡くなりました。
まず四男・松平忠吉は28歳まで生きていますが、特に家康から可愛がられたようです。当初は「忠康」と名乗っていますが、これは家康の父・広忠の「忠」と家康の「康」を取ったもの。忠吉への期待度がうかがえますね。
しかし関ヶ原の戦いで先陣を務めるも、病に罹って長い闘病生活を送っています。そして完治しないまま短い生涯を終えました。

五男・武田信吉も20歳の若さで亡くなっています。滅亡した武田家を信吉に継がせたあたり、家康の名族に対するノスタルジーが垣間見えますね。同様に今川家や吉良家なども再興させていますから、「名家を断絶させるには忍びない」と感じていたのでしょう。
しかし忠吉は生まれつき病弱で、大名の重責には耐えられなかったようです。慶長8年(1603年)に亡くなり、その遺領は弟・頼宣へ受け継がれました。

七男・松平松千代と八男・松平仙千代はいずれも6歳で亡くなっています。この時代は有効な治療法がありませんから、ちょっとした風邪でも命取りになることがありました。特に仙千代は利発で賢かったそうですから、家康の落胆ぶりも大きかったそうです。

この4人の息子たちですが、不思議なことに慶長4年(1599年)~慶長12年(1607年)の間に相次いで亡くなっています。ちょうど家康の天下取りから幕府創業期にあたり、徳川家にとって最も重要だった時期とぴったり符合するのです。

すでに三男・秀忠は将軍になっていましたが、徳川一門を支える重鎮は六男・忠輝以外にいないという状況を迎えていました。のちに徳川御三家として宗家を支える義直・頼宣・頼房の三人が生まれていなければ、もしかすると江戸幕府は大きな危機を迎えたかも知れませんね。

家康に愛された幼い兄弟たち
「九男・徳川義直」「十男・徳川頼宣」「十一男・徳川頼房」

かつては息子たちに冷徹な態度を示した家康も、晩年になるにつれて人が変わったような優しさを見せています。それが幼い義直・頼宣・頼房への愛着ぶりでした。家康はこの三人を駿府へ呼び寄せ、ともに暮らしながら養育しています。また、これまで家康が培ってきた政治・軍略・人事といった帝王学を叩き込み、主君としてあるべき姿を示しました。
さらに三人は徳川家の将来を担う立場になると考えたのでしょう。それぞれを水戸・尾張・和歌山へと配しました。これが徳川御三家の始まりとなります。

これまでの家康は自らの後継者以外に、決して「徳川姓」を名乗らせていません。しかし三人だけに許しているあたり、その溺愛ぶりがうかがえるのです。家康にとって最後の子供たちですから、徳川を託し、宗家を支えるのは彼ら以外にいないと判断したからでしょう。

家康がこの三人だけを溺愛した理由、それは家康の年齢も関係しているのではないでしょうか。家康も70近くなって以前のような厳しい雰囲気はなくなり、性格が丸くなったのかも知れません。また頑固一徹だった男性が、孫ができたとたんに穏やかになるのは世の常でしょう。家康も我が子でありながら、まるで孫のような感覚で接していたのでしょう。

家康は女好きだったのは間違いありません。とはいえ重要視したのは自らの子孫を残すことにありました。徳川家の繁栄は幕府の善政へと繋がり、やがて社会の安定を呼び込むでしょう。家康が晩年になっても子供を作り続けた理由は、徳川一門が中心となって平和な世を実現したい。そんな思いがあったからでしょう。

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