【悪女】不倫を繰り返し、国を奪う姫、小少将とは?乱世の戦国時代!


歴史上、「小少将」と呼ばれる女性は何人もいますが、とりわけ悪女として名高い人物が二人います。一人は越前の戦国大名・朝倉義景の側室となった小少将、そしてもう一人は阿波で再婚を繰り返しつつ巧みな世渡りをした小少将です。今回は不倫の果てに国を奪った阿波の小少将を紹介してみたいと思います。
その生きざまは、いかにも戦国を生きた逞しい女性そのもの。その悪女ぶりをどうぞご覧ください。

阿波守護の側室になるも、不倫を繰り返す小少将

小少将の生年は明らかではありませんが、阿波・西条城主・岡本清宗の娘として生まれました。生まれつき美貌の誉れ高く、「阿波一の美女」と謳われたほど。その頃、清宗は阿波守護・細川持隆に仕える下級家臣に過ぎませんでしたが、この美しい娘を主家に仕えさせようとしました。

そこで持隆の正室に侍女として奉公させるのですが、美しく教養もある彼女はたちまち持隆の目に留まり、側室として収まります。程なくして小少将は六郎(のちの細川真之)を産み、次期当主の生母となりました。
これで正室以上の力を手に入れたわけですが、小少将としてはまだまだ不満です。既に阿波細川家は守護代の三好家によって牛耳られており、持隆には実権などありません。

そこで小少将は三好長慶の弟・義賢(よしかた)に近付き、その美貌をもって義賢を虜にしてしまうのです。ところが持隆はまったく気づかず、二人は逢瀬を重ねながら不倫を繰り返したといいます。

もともと細川家は畿内を中心に8か国もの守護を務めた有力大名でしたが、応仁の乱から続いた戦乱や内紛によって徐々に力を失っていきました。また守護代だった三好家が畿内へ進出したことで、その地位は逆転していったのです。本家の細川晴元はなお畿内で健在でしたが、分家である持隆はもはや三好家の傀儡となり果てていたようです。

持隆はすでに57という年齢ですから、欲深い小少将が満足できるはずもありません。かたや26歳で野心旺盛な三好義賢に惹かれるのは当然のことでしょう。義賢もまた彼女の美貌に取りつかれ、二人は持隆そっちのけで不倫を楽しんだそうです。
しかし彼女のお腹には、義賢の子・千鶴丸(せんつるまる)を宿していました。さてドロドロの不倫劇の結末をご覧ください。

義賢の妻となって次々に息子たちを産む

真之という息子がいるにもかかわらず、義賢の子供を身ごもったわけですが、いずれ夫・持隆にバレてしまうかも知れません。そんな彼女のピンチを救ったのが持隆の行動でした。義賢の尊大な態度に持隆はかねてから不満を抱いていましたが、密かに起死回生のチャンスを狙っていたようです。

本家の細川晴元が三好長慶によって追放されたことを機に、阿波にいた将軍家一門・足利義栄を担いで上洛を図ろうとしたのです。もちろん三好の勢力を畿内から追い落とすためでした。
ところが密謀が義賢に漏れてしまい、とうとう持隆は見性寺(けんしょうじ)において謀殺されてしまうのです。

おそらく小少将は歓喜したことでしょう。目の上の瘤である持隆がいなくなり、これでようやく義賢と一緒になれることを。程なくして息子・真之が守護に収まり、これで阿波は完全に三好家のものとなりました。そして義賢との間に千鶴丸(のちの三好長治)、次いで孫六(のちの十河存保⦅そごう まさやす⦆)を次々に産んでいます。

畿内にいることが多く留守がちな義賢をよそに、小少将は大形殿(おおぎょうどの)と呼ばれて絶大な権勢を誇りました。ついに土豪の娘が阿波一国を動かす立場となったのです。

時代は大きく動いていました。管領・細川晴元が失脚して三好長慶が台頭し、ついに戦国初の天下人へ昇り詰めています。また義賢も兄に従って各地を転戦し、三好家の躍進に貢献しました。そんな激動の中で首尾よく阿波を手中に収めた小少将は、悪女というより才女と呼ぶ方がふさわしいかも知れません。つまり生き抜く才能に長けていたということでしょう。また父・清宗も義賢の直臣として取り立てられ、大きな所領を手にしたそうです。

しかし小少将の悪女ぶりはまだまだ終わりではありません。ますます混沌としていく戦国乱世と同様に、小少将の放埓ぶりも際立っていくのです。

亡き夫の家臣を愛人に!?どこまでもしたたかな小少将

さて畿内では三好長慶と将軍・足利義輝が争っていました。そして京都をうかがう義輝に呼応して兵を挙げたのが畠山高政です。永禄5年(1562年)、出家して実休(じっきゅう)と名乗っていた義賢は、これを迎え撃つべく出陣。ところが久米田の戦いにおいて、あっさり討ち死にしてしまいました。

これに衝撃を受けたのが小少将です。夫・実休が戦死して後ろ盾を失った以上、ここは頼れる有力者が必要でした。彼女はまだ30歳前後と若く、その美貌はまだまだ衰えを知りません。そこで篠原長房という武将に白羽の矢を立てるのです。長房は三好家臣団のまとめ役として信望も有り、阿波の政治を動かしている人物でした。

小少将は得意の色香で迫るのですが、長房は文武両道に秀でた立派な武将です。きっぱりと彼女をはねつけて「実休さまが亡くなったばかりなのに、そのような態度はおやめになってください」と諫言しました。
しかし小少将はどこまでもしたたかです。今度は長房の弟・篠原自遁(じとん)へ言い寄って、まんまと妻の座に収まってしまいました。

そんな彼女は、自分を袖にした長房のことは決して許しません。夫・自遁にあらぬことを吹き込んで、三好家当主となった長治に「長房が謀反を起こそうとしている」と訴えさせたのです。
暗君として名高い長治はすぐさま兵を差し向け、長房を討伐してしまいました。こうして事態は小少将の思い通りに進んでいったのです。

三好実休亡きあとの阿波は混乱の極致に達しました。守護の細川真之、そして実質的に権力を握った三好長治はともに小少将の息子だったのですが、とにかく仲が悪かったようです。それぞれの家臣団は反目し合い、あちこちで小競り合いが起きる有様でした。

また長治によって篠原長房が殺されたことも、三好家には大きな痛手となったようです。これまで家臣団を調整してきた長房がいなくなったことにより、長治を見限る家臣が続出。弱体化に拍車を掛けました。

いっぽう中央では織田信長が上洛を果たし、着実に権力を手にしつつあります。せっかく三好三人衆が畿内で頑張っても、阿波がこのような状態では支援はまったく期待できません。三人衆はあっさりと敗れ去って四国へ逃げ帰りました。これもすべては阿波を混乱させた小少将の責任なのかも知れません。

三好家が衰亡する中、長宗我部元親の愛人となる

もはや斜陽になりつつあった三好家ですが、ついに恐るべき敵がやって来ます。それが土佐から四国統一を目論む長宗我部元親でした。すでに家臣や領民から信望を失った三好長治は不利に追い込まれ、さらに名目上の守護・細川真之は長宗我部と結んで挙兵に及びます。そして荒田野(あらたの)の戦いで敗れた長治は25歳の若さで敗死しました。

とはいえ、これを良しとしない家臣もおり、彼らは十河存保を擁立して新たな三好家当主として迎えます。そして織田信長を拠り所として長宗我部と対峙するのです。
この時、小少将はどうしていたのでしょう?確かな記録はありませんが、自分が引き起こした混乱をよそに好きなように生きていたのかも知れません。

天正10年(1582年)、本能寺で信長が亡くなった直後に、阿波は長宗我部軍による大攻勢に晒されました。小少将の父は戦死し、夫・自遁も敗れ去って淡路へ敗走していったようです。また三好方が籠もる勝瑞城も落とされて、存保は讃岐へ撤退していきました。

さて一説によると小少将はどこへも逃げず、長宗我部軍に保護されたといいます。そして妖艶な美貌をもって元親を虜にしたとも。すでに年齢は50歳に差し掛かっていたと思われますが、現在でいう「美魔女」だったのでしょう。のちに五男にあたる右近大夫を産んだというから驚きですね。やがて土佐へ移った小少将は、その後も何不自由なく暮らしたそうです。

羽柴秀吉による四国攻めを経て、ようやく阿波は平穏を取り戻すのですが、たった一人の女性に振り回されたと言っても過言ではありません。それにしても小少将の生き抜く力、そして巧みな世渡りぶりは、まさに烈女そのもの。しかも命を落とすことなく天寿を全うしたわけですから、運にも見放されなかったのでしょう。

ちなみに小少将が産んだ息子たちですが、長男・細川真之は天正10年に急死、次男・三好長治は真之と戦って敗死、さらに三男・十河存保は戸次川の戦いで討ち死にしています。また土佐で生まれた長宗我部右近大夫は大坂の陣で捕らえられ、兄とともに切腹となりました。
いずれも非業の死を遂げており、母のしたたかさに比べるまでもありません。やはり戦国の女性は強かったのでしょうね。

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