【残酷な最期】武田四天王の最後が残酷すぎる!戦国時代、大活躍の!


「甲斐の虎」の異名を持ち、戦国最強の呼び声が高い武田信玄ですが、そんな信玄を支えたのは有能な家臣たちでした。とりわけ「武田四天王」と呼ばれた4人の重臣たちの活躍は、軍記物や講談などでも人気を博し、現在でも多くの人々の胸を熱くさせてくれます。ところがその最期はまさに悲壮なものでした。武田とともに生き、武田のために殉じた四天王の末路をご紹介してまいりましょう。

目立たないながらも武田の副将格として活躍!「内藤昌秀」

「昌豊」の名でも知られる内藤昌秀ですが、初めから内藤姓を名乗っていたわけではありません。彼の家は工藤姓を称していて、昌秀自身も工藤祐長(すけなが)を名乗っていました。また父・虎豊は武田信虎の信任が厚く、甲斐統一に大きく貢献しています。
ところが信虎が駿河出兵を強行しようとした時、反対したのが虎豊でした。相次ぐ戦で国内は疲弊しており、出兵どころではないと考えたからです。ところが信虎は怒りの矛先を虎豊に向け、あろうことか手討ちにしてしまいました。祐長たち工藤一族は国外追放となり、伊豆の北条氏を頼って落ち延びたとも。

そんな中、流浪を余儀なくされた祐長に朗報がもたらされました。武田晴信(のちの信玄)が父・信虎を追放し、工藤一族を帰参させようとしたからです。喜んだ祐長は旧領へ戻って50騎の侍大将として抜擢されました。そして名を昌秀と改め、めきめきと頭角を現していくのです。

川中島の戦いを経て深志城代となり、続く西上野(にしこうずけ)攻略戦では抜群の戦功を挙げて賞賛されました。そして恩賞として与えられたのが、断絶していた甲斐の名族「内藤家」の家柄です。やがて箕輪城の城代となった昌秀は、西上野衆をまとめて家臣団として加え、武田家の柱石としてなくてはならない存在となりました。
ちなみに昌秀の武略は古今無双だとされ、信玄の弟・信繁と並んで副将格と評されています。

ところが元亀4年(1573年)、信玄が陣没して勝頼が跡を継ぐと、武田家の命運は暗転していくのです。天正3年(1575年)に起こった長篠の戦いでは、味方が不利な状況の中、あえて勝頼に献策しています。
「潔く撤退すべき。さもなくば長期戦の構えを取るべし」と。戦略眼に長けた昌秀にとって、まともに戦うことは無謀に映ったのでしょう。

ところが勝頼は昌秀の提案を拒否し、優勢な織田・徳川連合軍に決戦を挑むのです。死を覚悟した昌秀の戦いぶりは凄まじく、敵を次々に圧倒していきました。果敢に三の柵まで突破するのですが、味方は次々に討たれてもはや数えるほど。昌秀は勝頼の撤退を見届けると、敵の追撃を食い止めるため踏みとどまります。そして矢を全身に浴び、まるでハリネズミのようになったまま討ち取られました。

武田の副将格として称賛された昌秀ですが、数えきれない軍功を挙げている割には、信玄から一度たりとも感状をもらうことがなかったそうです。感状とはいわば「表彰状」のようなものですから、これは主君からの評価に繋がるもの。家臣にとって誉れそのものでした。しかし信玄はこう語ったそうです。
「内藤修理(しゅり)ほどの弓取りであれば、常人を抜く働きがあって当然だろう」と。
また昌秀もそれに応えてこう言いました。
「合戦は大将の采配によって決まるもの。ゆえに個人の軍功など取るに足りません」
信玄と昌秀の信頼関係とは、わざわざ感状など出さなくても、揺るぎないものだったのでしょう。

あの家康も震え上がった恐怖の赤備えとは!?「山県昌景」

四天王の中でも最強の呼び声高い山県昌景ですが、最初は飯富(おぶ)源四郎と名乗っていたそうです。たまたま兄・虎昌が信玄の嫡男・義信の傅役(もりやく)をしていて、その縁で近習に取り立てられたとか。
24歳にしてようやく初陣を果たしますが、源四郎の才能はとても素晴らしく、信虎時代からいた板垣信方や甘利虎泰といった重臣第一世代が相次いで亡くなると、源四郎や昌秀といった第二世代が出世を遂げ、武田家の屋台骨を支えていくのです。

さて飯富三郎兵衛昌景と改名した頃、武田家中で大事件が起こりました。それは御曹司の義信が謀反を企て、虎昌も加担したというもの。真偽こそ定かではありませんが、事実を知った昌景が密告したという説もあります。
やがて義信は自害し、虎昌も切腹という処分が下りました。しかし昌景にすれば、姓が飯富のままでは肩身が狭いものがあります。そこで恩賞を頂くという形で、断絶していた山県家の名跡を継ぎ、山県昌景と名乗りました。また亡き虎昌が許されていた赤備えと家臣たちを引き継ぎ、昌景の部隊は武田家中最大の規模となったのです。

その後の昌景の活躍は目覚ましいものがありました。三方ヶ原の戦いでは先鋒となって徳川軍を打ち破り、家康は昌景の悪夢を見てしまうほど恐怖で震えが立ったといいます。その強さの前では向かうところ敵なし。まさしく武田軍最強の名を欲しいままにしました。

しかし長篠の戦いが昌景にとって最後の戦場となります。味方の不利を悟った昌景は、勝頼に翻意を促しますが、勝頼の決心は変わりませんでした。そして戦いの直前、昌景たちは大通寺の井戸水で別れの盃を交わし、決戦地へ向かったそうです。
味方が次々と鉄砲の餌食になる中、昌景も13度にわたって敵陣へ討ち入り、17発もの弾丸を受けて絶命したといいます。その時、手に持っていた采配を口にくわえたまま息絶えていたとも。

昌景の死を知って、もっとも悲しんだのが徳川家康だとされています。戦うたびに叩き潰され、まさに昌景の存在は恐怖そのものだったわけですが、やはり一人の武将として尊敬していたのでしょう。
のちに家臣・本多信俊の嫡男に「山県」という幼名を名付けていますから、きっと「昌景のように強い武将になれ」という思いを込めたのかも知れません。

一説によると、昌景の身長は4尺5寸しかなかったとされています。ちなみに現代に換算すれば135センチほどでしょうか。戦国時代を生きた武将の中ではもっとも低かったそうです。ところが昌景は体格の困難を見事に跳ね返し、最強武将として歴史に名を刻みました。

傷を一つも負わず、鬼美濃と恐れらた勇将の最期とは?「馬場信春」

戦場では常に先頭に立ち、生涯にわたって傷一つ負わなかったという武将が二人います。それが徳川四天王の本多忠勝と、武田四天王の馬場信春でした。特に信春は足掛け40年も戦場を往来し、70度の合戦に出陣しながら無傷だったそうです。

ちなみに信春も最初は違う名を名乗っていました。教来石(きょうらいいし)景政といいましたが、信虎時代に断絶していた馬場家の名跡を継いでいます。
また晴信から「信」の字を与えられ信春と名乗り、今は亡き猛将・原虎胤の武勇にあやかって美濃守を継承。その豪勇ぶりから「鬼美濃」という異名を取りました。

武田軍の向かう先では常に信春の姿があり、川中島の戦い・駿河進攻・三増峠の戦いでは華々しい活躍を遂げています。そして戦いに強いだけではなく、優れた築城技術を持っていました。深志城や諏訪原城・小山(こやま)城などは信春の手によって築かれ、武田流築城術として実戦的な役割を果たしたそうです。

そんな信春にも最期の瞬間が迫ってきます。運命の長篠の戦いでは鬼神のような戦いぶりを見せ、あの信長公記(しんちょうこうき)にも「馬場美濃守の働き、比類なし」と記されているほど。しかし味方が総崩れとなっていく中、主君・勝頼を逃がすため敵の前面に立ちふさがります。そして蜂の巣にされながら踏みとどまったそうです。

武将とは戦いが強いだけでは一流とは言えません。優れた人格が伴ってこそ部下も付いてくるもの。信春もまさにそんな人物でした。
今川領へ攻め込んだ信春ですが、信玄から「今川館にある財宝を持ち出せ」と命令を受けます。ところが、信春はせっかく運び出した財宝を炎の中へ放り込むという振る舞いに及びました。信玄からその理由を聞かれた信春は、こう答えたそうです。
「戦いの最中に財宝を奪うなど後世から笑われましょう」と。それを聞いた信玄はあまりの潔さに、笑って許したそうです。

また三方ヶ原の戦いでは徳川軍に圧勝するのですが、倒れた徳川兵を見た信春はこう言ったと伝わります。
「徳川の者どもは皆、武田の陣を向いて斃れている。逃げなかった証拠だろう」
立派な振る舞いには敵味方も関係ない。信春はそう褒め称えたのです。

農民出身ながら、武田四天王へ出世した信玄の恋人「春日虎綱」

この人物は「高坂昌信」という名でも知られていますが、実際は春日虎綱と呼ぶ方が正しいそうです。四天王の中では長篠で戦死しなかった唯一の人物で、有名な「甲陽軍鑑」は虎綱の言葉をもとに編纂されたとも。
さて虎綱はもともと武士の出ではありません。信濃の農民だった春日家の出身で、名を源五郎と名乗っていました。やがて16歳になると武田家の居館へ出仕し、信玄のもとで小姓となります。また寵童として信玄に愛されたとも。つまり男でありながら主君の恋人だったわけですね。

しかし源五郎はただの小姓では収まりません。戦場では使番(つかいばん)として出陣し、一隊を任されて目覚ましい戦功を挙げることも多かったとか。やがて働きを認められて侍大将に出世し、春日虎綱と名を改めました。
信玄は早くから虎綱の能力を見抜いていたのでしょう。上杉家と争っていた最前線の城・海津城の城代に抜擢されるなど、重要な役目を与えています。
しかも「逃げ弾正」という有り難くない異名まで頂戴していました。これは「弱くて逃げる」という意味ではなく、守りがうまく、撤退戦に強いという意味です。味方が危うくなった時こそ能力を開花できたのでしょう。

さて長篠の戦いに虎綱が参陣することはありませんでした。海津城の守備を任されたことで四天王唯一の生き残りとなったのです。長篠の敗報を聞いた虎綱は、すぐさま兵をまとめて救援に駆け付けました。そして敗軍の将となった勝頼を迎えます。すっかり落ちぶれた勝頼を見た虎綱は憐れみ、新品の軍装に着替えさせた上で甲府へ凱旋させたそうです。せめて甲府へ戻る時は大将らしく振舞ってほしい。そんな虎綱の思いだったのでしょう。
天正6年(1578年)に虎綱は亡くなりますが、武田家の滅亡をその目で見なかったことが救いだったのかも知れません。

この時代、男同士の恋愛は珍しくはありません。恋仲だった信玄と虎綱も例外ではなく、信玄が出した恋文が現存しているというのですから驚きです。浮気を疑われた信玄が、必死で言い訳しているところが面白いですね。

「弥七郎には確かに言い寄ったが、腹痛だと断られたゆえ、何もなかったのが正直なところじゃ」
「もちろん弥七郎に相手をさせたこともなかったし、昼間や今夜などあるわけもなかろう」
「もし手紙に書いたことがウソなら、神罰の罰でもなんでも受けようではないか。本来ならちゃんとした紙に書くべきだが、役人たちも起きているから今日は叶わぬ。明日になればちゃんと書こう」
「本当に結ばれたいのはそなただけじゃ。わかってくれい」

あの冷徹な信玄がメロメロだったわけですから、虎綱はたいへんな美少年だったのでしょう。
優れた容姿といい能力といい、信玄が惚れるのも無理はありませんよね。

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