【残酷な末路】織田信長と9人の妻、全員解説!波乱の人生!


乱世の風雲児こと織田信長には、なんと20人以上の子供がいたとされています。また正室・帰蝶の他に多くの側室がいたことが知られていますから、まさしく英雄色を好むといったところでしょうか。
そんな妻たちがみんな幸せな一生を送れたのか?となると決してそんなことはありません。信長の死を契機に多くの女性たちが苛酷な運命に翻弄されていきました。今回はそんな9人の嫁たちをご紹介していきたいと思います。

信長と結婚する前はバツイチだった!?
謎に包まれた正室「帰蝶」

信長、初めての嫁そして正室となったのが帰蝶です。「濃姫」とも呼ばれますが、これは江戸時代の書物による呼称ですから、正しくは帰蝶が正しいようですね。
さて美濃・斎藤氏との同盟の証として信長の元へ輿入れしましたが、実はこれが二度目の結婚でした。一度目は守護・土岐頼純の正室となったのですが、下剋上を目指す父・斎藤道三の策略によって頼純が毒殺され、数年で実家へ戻っています。

ところが信長への輿入れ後、帰蝶の記録はぷっつりと途絶えてしまうのです。道三の死後、その肖像画を常在寺へ寄進したことまではわかっているのですが、信長という有名人の妻でありながら記録に残らないというのは、なんだか不思議な感じがしますね。
そのため彼女に関する説もさまざまあり、結婚して程なくこの世を去ったとか、本能寺で信長とともに亡くなったなど、その生涯は謎に包まれたままなのです。

実は帰蝶に関する有力な史料が残されています。それは織田家臣・蒲生家の事績を記した「氏郷記」というもの。本能寺の変の際、安土城の留守居役・蒲生賢秀が、信長の妻たちを避難させた時、その中に「御台所(みだいどころ)」と呼ばれる女性がいたそうです。御台所とはつまり正室を指しますから、これが帰蝶ではないかと指摘されています。

また信長の菩提寺・大徳寺総見院には、帰蝶のものと思しき名簿が残されていて、「信長公御台」と記されていました。その没年を見ると慶長17年(1617年)とありますから、信長・秀吉・家康ら三英傑の天下をその目で見たことになるでしょう。実際にはずいぶん長生きをされたのですね。

もっとも愛する女性を失った信長の悲しみとは?
「生駒吉乃(きつの)」

信長がもっとも愛したという女性、それが「生駒吉乃」だとされています。信長が若い頃、織田家と繋がりが深かった生駒家の屋敷に出入りしていたようで、そこで見初めたのが吉乃でした。彼女は土田(どた)秀久という武士に嫁いでいたのですが、夫が討ち死にしたことで実家へ戻っていたのです。おそらく信長は一目惚れしたのでしょう。吉乃は4つ年上ですが、信忠・信雄・徳姫という三人の子供たちを生駒屋敷で産ませています。

ところが吉乃は生まれつき体が丈夫ではありません。徳姫を産んだものの産後の肥立ちが悪くなり、とうとう臥せってしまうのです。
永禄6年(1563年)に信長は小牧山に城を築き、吉乃のための屋敷を建てて移らせました。しかし彼女の体調が戻ることはなく、2年後にこの世を去ったそうです。

吉乃の死、それは信長にとって大きな悲しみとなりました。生駒家の菩提寺・久昌寺(きゅうしょうじ)には、こんな言い伝えが残されています。

「吉乃が亡くなったのち、信長の悲しみが癒えることはなく。小牧山城の高矢倉に登って、西の方角を望んでは吉乃を思い出しつつ、悲しみの涙を流していた」

何が起こっても動じない信長が嘆き悲しむほどですから、吉乃の死があまりに衝撃だったのでしょう。信長とて一人の人間。そんな一面を見るような気がしますね。

これも乱世の宿命!?
我が子と運命を共にした母の最期「華屋院(かおくいん)」

当時の女性たちに名前はあったはずですが、現在までほとんど伝えられていません。史料をひも解いても「誰々の女(むすめ)」と書かれているだけです。そのため亡くなったあとの戒名で呼ばれる場合が多く、信長の側室・華屋院もそんな女性の一人でした。

華屋院はもともと伊勢の豪族・坂氏の出身だったとされ、信長の三男・信孝の生母となります。いつごろ側室になったのか定かではありませんが、成長した信孝は各地の戦いで目覚ましい活躍を遂げ、異母兄・信忠に劣らないほどの青年武将になったとか。

しかし運命を暗転させたのが信長の死でした。羽柴秀吉と反目して柴田勝家と結びますが、勝家が雪で動けない隙を衝かれて岐阜城を囲まれ、降伏を余儀なくされるのです。信孝は仕方なく母・華屋院と娘を人質に差し出すのですが、翌年に起こった賤ヶ岳の戦いが彼女たちの運命を決定付けました。

信孝は呼応して兵を挙げるものの、頼みの勝家が敗北したことで再び岐阜城を囲まれました。そして今度こそ許されることはなく自害を遂げてしまうのです。
さて残された華屋院たちも同じ運命をたどりました。安土城に近い慈恩寺で処刑され、その最期は人々の涙を誘ったといいます。

通説では、次男が信雄、三男が信孝となっていますが、実際には信孝のほうが20日ほど先に生まれたようです。
ところが母・華屋院の出自が低かったことから三男扱いになってしまいました。華屋院にすれば信孝に申し訳ないという気持ちもあったことでしょう。

しかし信孝はそんな境遇に負けず立派な武将へ成長していきました。四国攻めの総大将に抜擢されたほどですから、かなり有能な大将だったと思われます。ところが本能寺の変が起こったことで、苛酷な運命が二人を待っていたのです。

乱世にもてあそばれた側室の幸薄い一生とは?「お鍋の方」

お鍋の方は、信長が上洛したのちに側室となった女性です。もともとは近江の武将・小倉実房(さねふさ)の妻で二人の息子がいたのですが、織田に味方したことで討ち死にしてしまいます。
そこで救いの手を差し伸べたのが信長でした。亡き実房と旧知だったこともあり、お鍋の方と息子たちを保護したのです。程なくして信長の側室となり、二男一女をもうけたとも。

しかし本能寺の変がすべてを暗転させました。信長だけでなく、小姓として仕えていた次男も亡くなってしまい、お鍋の方は悲しみに暮れるばかり。自分の屋敷に引き籠る毎日を送ったそうです。
そんな彼女を案じたのが秀吉の妻・寧々でした。大坂城へ招いて奥向きの差配を任せ、生きる希望を与えたのです。

ところが不幸が再び彼女を襲います。関ヶ原の戦いが起こった時、信長との間に生まれた信高と信吉が西軍に属してしまいました。結果は敗北に終わり、全ての所領を没収されてしまったのです。
領地を追われたお鍋の方は京都で暮らしますが、その生活ぶりは大変貧しかったそうです。淀殿からわずかばかりの援助を受けつつ、静かに暮らしていたとも。慶長17年(1612年)に彼女は亡くなりますが、最後まで乱世に翻弄され続けた一生でした。

側室となったお鍋の方が暮らしたのは、現在の東近江市のあたりですが、現在でも「お鍋館」とか「姫屋敷」と呼ばれているそうです。発掘調査によれば豪壮な石垣や門の跡が見つかったとされ、おそらく信長が側室にふさわしい屋敷を建てたのでしょう。

のちにお鍋の方が亡くなった時、付近の領民たちは彼女の最期を憐れんで塚を作って松を植えました。現在は枯れてしまったものの、長く「おなべ松」と呼ばれていたそうです。

産んだ子が秀吉の養子となる「養観院」

信長が尾張にいた頃から側室にしていた女性が養観院です。ただ史料が乏しく、その生年や没年などはわかっていません。弘治3年(1557年)頃に側室になったと思われるため、おそらく生駒吉乃と同時期に信長から見初められたのでしょう。

彼女もまた信長の子を産んでおり、四男・秀勝と、蒲生氏郷の妻となる冬姫の存在が確認されています。ちなみに秀勝は、子供がいなかった秀吉の養子として羽柴家に入り、信長の葬儀には喪主としての役目を果たしました。
養観院もまた秀勝とともに丹波の所領へ移ったようです。しかし生まれつき病弱だった秀勝は体調を崩しやすく、とうとう天正13年(1585年)に亡くなってしまいました。まだ17歳の若さだったといいます。

その後、亡き信長と秀勝の菩提を弔うために出家し、京都で余生を過ごしたとも。

秀勝が羽柴家へ養子に入ったとはいえ、やはり母の愛は大きなものがあったようです。秀勝の病状が重くなった時、養観院は必死になって息子を救おうとしました。神官である吉田兼見を頼って何度も祈祷させたり、あるいは畿内の寺社を巡っては、病気治癒の願文(がんもん)を収めたとも。

しかし願いも虚しく秀勝は亡くなり、その後の彼女はひたすら菩提を弔う毎日を送ったといいます。ちなみに高野山に残る信長と秀勝の供養塔は、養観院が寄進したものだそうです。

実は信長の長男を産んでいた!?「塙直子(はなわ なおこ)」

通説では吉乃との間に生まれた信忠が嫡男とされていますが、実はそれ以前に長男・信正がいたという説があります。生母は信長の側近・塙直政の妹である直子という女性だったとか。しかし家臣の妹が生母では、いくら信正が長男とはいえ家督を継げるわけがありません。やがて信忠が生まれたことで、信正は庶長子という立場に置かれたのです。

直子は尾張にあった古渡(ふるわたり)城にいたらしいのですが、どんな暮らしをしていたのか?細かいところまでわかっていません。またその後の消息もつかめていないのです。

妹を側室に差し出し、側近として活躍した塙直政ですが、なぜか一族は冷遇されてしまうのです。大坂本願寺との戦いで直政は討ち死を遂げますが、残された一族に敗戦の責任が押し付けられました。そして織田家中から追放したあげく、「直政の腹心を捕らえよ。追放した一族には宿すら貸してはならん」と厳命するのです。

かつては信長も塙家と親密だったはずですが、なぜこれほどまでに冷遇するようになったのか?これも歴史の謎かも知れませんね。

信長の死後、加賀で生涯を終えた女性
「春誉妙澄大姉(しゅんよみょうちょうだいし)」

この女性は信長の四女・永姫(ながひめ)を産んだとされていますが、実際の名は伝わっておらず、戒名しか知られていません。ただ江戸時代の記録によれば「生駒氏」とありますから、もしかすると吉乃と血統が繋がっていた可能性があります。

さて永姫が前田利家の嫡男・利長へ嫁いだこともあり、信長が亡くなると前田家を頼って加賀で暮らしたとも。少なくとも他の側室たちに比べて、平穏な余生を過ごしたのではないでしょうか。

本能寺の変が起こった時、前田利長と永姫は上洛する途上にあったそうです。近江で変事を知った二人は、利長は安土へ、そして永姫は尾張の荒子へ向かいました。もちろん母の身を案じてのことでしょう。そして母を伴って前田領へ避難したそうです。

母を救ったことといい、吉乃の菩提寺を自費で建立したのも永姫でした。こうしてみると永姫は慈しみが深く、心優しき女性だったのでしょう。

唯一の公家出身だった側室「あここの方」

信長が側室としたのは武家の娘だけではありません。三条西実枝(さねき)の娘・あここの方は唯一の公家出身の側室でした。しかし、この女性もまた詳しい経歴が明らかではないのです。

「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」という朝廷の女官たちが記した日記に登場するのみで、何をしたとか、どんな女性だったのかまったくわかっていません。

当時の公家にとって、権力者・信長に接近することが出世への早道でした。実際に実枝は天正5年(1577年)に大納言へ昇進していますから、きっと娘を差し出すことで出世の糸口としたのでしょう。
ほぼ天下を手中にしていた信長は、武家からも公家からも尊敬される立場だったのです。

彼女の死が本能寺のきっかけとなった!?
「御(お)ツマキの方」

最後にご紹介するのは、おそらく明智光秀の縁者だったと考えられる御ツマキの方です。「ツマキ」とは「妻木」に通じ、光秀の妻・煕子の実家を指します。また「多聞院日記」には「惟任(これとう)ノ妹」という記述があることから、煕子の妹つまり明智光秀の義理の妹だったのではないか?と解釈できるのです。

信長のお気に入りだった御ツマキの方ですが、本能寺の変の直前にあたる天正9年(1581年)に亡くなります、信長の悲しみは尋常ではなく、当時の記録にも落胆する様子が記されているほど。

また彼女の死と符合するかのように、信長と光秀の関係は冷却化していき、やがて主君弑逆という結末へ向かっていくのです。御ツマキの方の死が本能寺の変を招いた。そう解釈もできるのです。

当時の記録からも、信長のお気に入りぶりが垣間見えるようです。天正5年(1577年)に興福寺と東大寺の争いが起きた時、光秀と御ツマキの方は揃って信長に仲裁を求めました。
さらに天正8年(1580年)になると、公家たちは上洛する信長へ進物を献上しますが、御ツマキの方に対しても酒や着物などを届けたことが伝わっています。公家たちも彼女の機嫌を取ることに執心していたようですね。

いわば信長にとって、彼女は相談事もできる信頼できる相手でした。また信長と光秀を繋ぐかすがいの役割もあったのでしょう。しかし彼女の死は光秀との関係悪化を招き、やがて本能寺の悲劇へと繋がっていくのです。

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