【論争】真田父子の生き残り戦略、別離の会談「犬伏の別れ」幸村の生死を分けた決断!


真田昌幸や真田信繁といった有名な武将を輩出した真田家ですが、激動の時代に翻弄された一族でもありました。大勢力の狭間で存亡の危機を迎えながらも、裏切り者と呼ばれようが、卑怯者と呼ばれようが、生き残るためには手段を選ばない。それが真田家の姿だったのです。
そして関ヶ原の直前、父と息子は分かれ分かれとなり、それぞれの道へ歩み出していきました。それが「犬伏の別れ」という場面です。今回はそんな真田家の生き残り戦略を詳しくご紹介していきましょう。

武田滅亡後、独立への道を歩き出す真田家

戦国時代、信濃の真田家は甲斐・武田氏の家臣でした。幸隆の代から仕えたため新参に過ぎませんが、息子・昌幸が武田信玄の近習になったことで譜代格が与えられたようです。
ところが状況は武田氏にとって逆風となり、天正10年(1582年)には織田・徳川連合軍による甲州征伐を受けてしまいます。

昌幸は主君・武田勝頼を居城に迎えようとするも叶わず、勝頼は逃避行のあげく無惨な最期を遂げてしまいました。昌幸は訃報を聞いて思わず涙を流したと伝わりますが、ここで大きな決断を迫られます。武田に殉じて最後まで戦うか?それとも所領を守るためにあらゆる手を尽くすのか?

昌幸が出した答えは織田に従属することでした。程なくして織田信長から本領安堵の沙汰が下り、織田の関東方面軍司令官・滝川一益の配下となったのです。
しかし運命は皮肉なものでした。わずか数ヶ月後に本能寺の変が起こって信長が亡くなり、滝川一益は北条氏との決戦で敗れたあげく、伊勢目指して落ち延びていきます。
こうして残された昌幸は、真田家の独立を勝ち取るべく戦いに身を投じていきました。

なぜ、こうも簡単に昌幸は本領安堵を勝ち取れたのでしょうか?そこには恐るべき昌幸の深謀がありました。
まず、武田氏が滅亡する前から北条氏と気脈を通じる素振りを見せ、上杉氏に対しても同様に後ろ盾になってくれるよう懇願しています。

さらに北条・上杉に援軍要請の密書を送るのですが、わざと密書が織田の手に落ちるよう仕向けました。これを見た織田信忠は驚きます。「まさか真田は北条・上杉と組んで対抗するつもりか」と。
そこで信長と信忠は真田の懐柔に乗り出し、本領安堵を確約しました。そう昌幸の狙いは初めから織田に従属することにあったのです。できるだけ自分を高く売りつけること。それが生き残る最善の策だと考えたのでしょう。

昌幸渾身の生き残り戦略!天正壬午の乱

独立を目指す昌幸ですが、周囲の状況がそれを許しません。信長・信忠が亡くなり、滝川一益もいなくなったことで織田の勢力はいなくなり、信濃は北条・徳川・上杉といった大勢力の草刈り場と化したからです。
当初は北条に帰順した昌幸ですが、北上してきた徳川軍によって北条軍が敗れると、素早く北条を見切って徳川に臣従しました。そして甲斐にいた北条軍の背後を牽制するなど勝利に貢献しています。

結果的に北条と徳川の間で和睦が成立したことで、真田の独立は確保できたかに見えましたが、話はそう簡単にはいきません。和睦の条件に「上野国の領有権は北条方とする」という項目が盛り込まれていたからです。そこには真田の所領である沼田も含まれていました。

昌幸は反発して「沼田は自ら切り取った土地。渡すわけにはいかない」と大見得を切ってしまいます。そして徳川を見切って、今度は上杉の傘下となって対抗する姿勢を見せました。これに怒ったのが徳川家康です。天正13年(1585年)、大軍をもって昌幸の上田城へ侵攻しますが、巧みな戦術に引っかかった徳川軍は大敗。こうした活躍ぶりが豊臣秀吉の目に留まり、ついに昌幸は豊臣政権から「大名として認める」という朱印状を得るのです。

信濃一帯を争乱の渦に巻き込んだ天正壬午の乱ですが、ここでも昌幸は巧みな謀略を駆使しています。沼田領を北条軍に攻められた時、昌幸は叔父の矢沢頼綱を沼田城代に任命しました。そして頼綱を単独で上杉へ降伏させたのです。

とはいえ徳川の与力である以上、上杉と戦う素振りは見せねばなりません。あくまで頼綱が真田家を裏切ったように見せかけ、昌幸は上杉方の城をどんどん落としていきました。表面上は上杉と敵対しつつも、沼田領に限っては上杉に味方するという不可解な現象が起きています。

上杉景勝も混乱したらしく、家臣に「果たしてこれが信じられるか?」と聞いているほど。しかも沼田領のバックには上杉がいますから、北条軍も簡単に沼田領へ攻め掛かれません。こうした巧妙な手段を用いて領地を守り抜いたあたり、昌幸の非凡さを感じますね。

徳川をバックに付けた信之と、豊臣家の直臣となった信繁

さて真田家が豊臣政権の麾下になった以上、もはや家康も迂闊に手を出せません。そこで秀吉の肝いりで和睦と相成ったのですが、その証となったのが昌幸の嫡男・信之の結婚でした。徳川家の重臣・本多忠勝の娘・小松姫を家康の養女とし、信之へ嫁がせたのです。これで形式上は家康の娘婿ということになり、信之は徳川との結びつきを深めていきます。

いっぽう次男・信繁ですが、これまで滝川・木曽・上杉などへ転々と人質に出されていました。そして真田が豊臣政権に臣従すると今度は大坂へ移されています。下には信勝という弟がいますが、あまりに幼かったため次男の信繁が適任だと判断されたのでしょう。
しかし信繁は秀吉によって見出され、直臣として馬廻(うままわり)衆に抜擢されるなど出世を遂げています。
また秀吉の子飼いの一人・大谷吉継の娘を妻に迎えるなど、ますます豊臣政権との絆を深めていきました。さらに信繁の妹・趙州院(ちょうしゅういん)が石田三成の義兄弟・宇多頼次に嫁いでいたこともあり、奇しくも真田・大谷・石田の三家は姻戚関係で繋がっていたのです。

徳川寄りの信之、そして豊臣寄りの信繁がいたことで、やがて真田親子は思いがけない別れを交わすことになります。

大坂城にいた信繁は、秀吉から破格の厚遇を受けていたそうです。なんと兄を差し置いて2万石を領していたとか。2万石といえば立派な大名待遇ですから、人質に出された次男坊にしては明らかに不相応でしょう。
しかし、それ以上に信繁は期待されていたのかも知れません。信繁の器量が優れていたこと、そして徳川を破った真田の存在に秀吉は注目したはずです。

また臣従したとはいえ、秀吉にとって家康は侮りがたい存在でした。兄・信之は家康の娘婿ですから、万一の際には徳川に味方する可能性があります。そこで弟・信繁を豊臣側へ取り込むことで、真田と太い繋がりを持ちたかった。そんな風に解釈できるのです。

哀しい親子の別離…犬伏の別れ

秀吉が亡くなったのち、家康と反発する者たちとの衝突は不可避となります。そして家康の会津征伐に乗じて決起したのが石田・毛利・宇喜多らの西軍でした。折しも昌幸・信繁父子は上田から、信之は沼田から出陣して家康の陣に加わっています。

やがて犬伏の宿場に到着した時、西軍の石田三成から密書が届けられました。そこに書いてあったのは、「家康の非は明らかであり、ともに立ち上がろう」というもの。昌幸は息子たちを呼び寄せると、自分の心の内を明かしました。「大乱に乗じ、武将としての大望を遂げるべき」だと。
信繁はいち早く賛成しますが、信之は「ここまで出陣した以上、今さら逆心を抱くのは武士のすることではない」と反発しました。

昌幸は説得するものの、信之の心が変わることはありません。ついに昌幸と信繁は上田城へ戻って防戦準備に取り掛かり、信之は家康の元を離れなかったといいます。血を分けた親子の悲しい別れの瞬間でした。
やがて上田城で真田父子は奮戦するものの、関ヶ原で西軍が敗北。昌幸と信繁は死罪こそ免じられるものの、紀州への蟄居を余儀なくされました。
しかし、徳川方に味方した信之はその後も忠節を励み、松代藩10万石として幕末まで生き抜いていくのです。

犬伏での悲しい別れとなりましたが、一説によると昌幸は最初から親子で別れることを考えていたとも。東軍が勝てば信之の家系が、西軍が勝てば信繁の家系が残りますから、いずれにしても真田家は存続できますよね。
また勝った方が負けた側の助命嘆願をおこなうことも決まっていたようです。実際に信之は関ヶ原の戦いが終わると、さっそく伏見の家康を訪ねて助命に奔走しました。また岳父の本多忠勝を伴って嘆願したとも伝わります。

その後、紀州九度山へ送られた昌幸と信繁は隠棲の身となりますが、信之は事あるごとに気に掛け、定期的にお金も送っていたようです。その額は現在の価値で年間1千万円ほどもあったとか。
さて、のちに弟・信繁が大坂城へ入城した時、信之はいったいどんな気持ちだったのでしょう?とうてい推し量ることはできませんが、武士として志を貫いたことを褒め称えたかったのかも知れませんね。

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